ボスは迷文家シリーズ

訴訟社会アメリカ
アメリカ人がもつ自己主張の原点


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今週のはじめに一通の郵便がお隣さんから送られてきた。「当家のゴミ・バケツがへこんでしまった。お宅の家族の誰かがやったに違いない。大至急弁償して欲しい」。 このお隣さんは、自己中心的なことで有名な人。彼女の西隣のお宅では、デッキの角に置かれた植木鉢が彼女の家からの眺望をさまたげるので移動するように」という手紙を受け取ったことがある。アメリカには、ご近所同士であってもこの様に白黒をはっきりされる人達が多い。自己主張が己の利益を守るという前提に立っているのだ。それは生活レベルでの権利の主張ともいえる。

数年前には我が家の桃の苗木が成長すると、彼女の敷地内に果実が落ちて腐ってしまうだろう。だから今から除去して欲しい、と要求されたことがある。それでいて彼女の庭のプラムが我が家の敷地におちて腐ることには触れない。だから毎年のように、夏の後半から晩秋にかけて、彼女のプラムは僕の家の敷地内で腐っている。でも桃の木は大きく成長する前に除去させられたので目にすることはない。

こんな彼女だが悪気はない。ちゃんと向こうから笑顔で話しかけてくるし、世間話もする。こと自己主張や権利の主張となると、態度が変わるだけなのだ。腐ったプラムがいやならば、こちらが権利の主張をすればよいだけのこと。しかし日本人の私としてみればアメリカに二十年も住んだ今でも、こうしたことで自分の主張をすることを嫌う。腐ったプラムなど掃きとればそれで済むことだからだ。

ご近所さんで、このような人は彼女しかいない。でも、それは彼女の場合だけが極端なだけで、基本的に平均的なアメリカ人は彼女と大差はない。私の家の前の持ち主は、東隣の家主を訴えていた。家の建替えをしたお隣さんの暖炉の煙突が高すぎて、眺望を妨げるということがその理由。こうした行為は、人間関係に支障をきたすのだが、主張をする方にしてみれば、人間関係を維持することよりも自分の利益範囲を守ることの方が重要なのだ。煙突の位置が高いと主張しておかないと、仮に将来東南側のお隣さんが同様に高い煙突を建てた時に、自分の主張が正しいと立証することが難しくなるという立場をとる。

A社の商品が特許に抵触するとして、その特許の所有者であるアメリカの会社は、その相手先を訴える。取引先同士、いわば人間関係の成立した間にでも頻繁にみられることだ。なあなあはない。彼等の基本的な立場は、判明した時点で権利の主張をしておかないと、仮に将来B社も同様に抵触した時に、A社という前例を取り上げられて、自己の財産である特許の権利を脅かされることがありうる、というもの。別に知り合い同士だから、まあいいだろう、、という態度を取ることをしない。ところが、こういったアメリカ人の考え方を理解しない日本人は、知り合い同士なのに訴えるとはけしからん!と受け止めるので、人間関係が断絶してしまうことが多い。

日本企業にも言い分はある。抵触しているならば別に話し合いをするなり、契約を結ぶなりすればよいことであって、何もいきなり訴訟手段をとることはないだろう。理解できることだ。 昔から語られてきたように、スペシャリストたちがアメリカ企業を構成している。マネージャー職のジェネラリスト達がいても、彼等はジェネラリストたる仕事をやることが少ない。そして、ひとつの組織の中でのスペシャリストたちの連携プレーが日本のように密接ではない。社長職や部長職のようなジェネラルな考え方が求められる職種にありながら、部下のスペシャリストたちに任せっぱなしにしていることがある。任せきりにされているスペシャリストたちだが、彼等は指示された範囲以上の仕事をしない。本来ならば、ジェネラリストたちがスペシャリストたちをまとめ、人間関係を含めてプロジェクトが潤滑に運ぶようにしなければならないのだが、そうした自覚をもつジェネラリストや、配慮ができる経営者たちは少ない。

企業の法律部門が特許抵触の指摘をした時に、ジェネラリストとしての社長は取引先が相手ならば、先に話し合いをするから訴訟は待つようにと指示すべきところを、すした配慮を示すことを怠って、すべて部下や外部のコンサルタントたちに任せっきりにしている。マニュアル通りの仕事をしている限り、間違ったことはしていないという信念に基づいている。従って、取り引き先との関係を潤滑にする為にも特別の配慮をしようという考えが浮かばないのだ。悪意は全くない。

全てを文字通りの解釈しすぎるアメリカ人の中には、人間関係への配慮が不足している人たちが多いように見受けられる。しかし、アメリカ人の中にも配慮がある人はいて、日本人の中にも配慮のない人たちは多くいる。人前で特定の部下をなじったり、初対面の人に根ほり歯ほりのプライベートな質問をしたりで遠慮がない日本人も多い。私の友人がアメリカ人ひとり日本人二人に本を寄贈した。お礼状を送ってきたのはアメリカ人だけだ。日本人に配慮があってアメリカ人にはそれがないと思っている多いが、配慮とは日本人の得意技ではないといえる。

部門Aが凸の部品を作り、部門Bが凹を作る。ところが、これらの部品がぴったりと嵌合しない時、米国企業では、勘合させる為に歩み寄ることをなかなかしない。彼等は夫々の部門にもどり、測定し直して、図面の再チェックを行う。こうしたプロセス自体は批判されることではない。これにより、更に精密なモノができあがるからだ。米国企業で働く人たちは、このようにしてマニュアル通りに動く。そしてマニュアル通りに進行する行程に間違いはないと信じている。こうして彼等の自己主張が正当化する。

アメリカ人が見せるマニュアル通りの動きが人間関係にも応用された時に、日本人にとっては意外な驚きが感じられることが多い。だから、日本人の私にしてみれば゛たかだか゛10ドルのゴミ・バケツひとつで弁償しろとの郵便もないのではないかと思うのだが、彼等彼女等にしてみれば10ドルという額は二次的なことであって、マニュアルにしたがって自分の主張をしていることにすぎないのだ。

二通目の手紙が送られてきた。一通目の手紙で゛ゴミ・バケツ゛を弁償して欲しいと書いたが気が変わった、゛金属゛でできたバケツにして欲しい、という内容だ。彼女のつぶされたバケツはティンでできている。ティンの特質からしてもこのバケツは裏から叩けば直る。でも私はその手紙を受け取る前にポリ・バケツを購入し、夜遅く帰宅した際に彼女の家の裏口に置いてきた。それと入れ違いにポリバケツでは駄目だという手紙が配達されたわけだ。手紙には、ゴミが溜まってしまったので、その責任も私にあると書き加えられていた。それを読んで私は腹がたつどころか、彼女の反応を楽しむようになっていた。翌日、ティン製のバケツを買ってきて、これもどうぞ、と言うつもりになった。

ティン製バケツを購入しドアのところにおいてから家に帰った。すると三通目の手紙がきているではないか。このストーリーは本当に面白くなってきた。しかし残念なことに(?)三通目の手紙は、苦情や主張ではなかった。素敵なバケツをくれてありがとうというお礼状であった。立派なゴミ・バケツをもらってとても嬉しいという手紙を送ってきたのだ。喜びの余り彼女の手紙には、溜まったゴミは、きっと清掃車がまとめてもって行ってくれるでしょう、あのごみ箱だって清掃車がつぶしたのに違いないのだから、、、と書き加えてあった。この手紙を読んで私は声を高らかに笑うざるをえなかった。そうか清掃車がつぶしたバケツなのか。我が家の誰かの仕業ではなかったんだ。一番取れやすいところからとったんだ。しっかりとした彼女は、貰った物は我が物なり!と無実の我々にバケツを返すという気配はない。

元新聞記者で独身高齢の彼女は、年金で暮らす一人暮らし。収入がないから、一ドルの価値にも厳しいのだろう。十ドル程の金額でこれほどまでになる人たちは、郊外の住宅地にはなかなか見られない。アメリカ人の皆がみな彼女のようではないのだ。でもそれも五十歩百歩の違い。収入の度合いによって請求するものが異なるだけのこと。こうした考え方にアメリカ人がもつ自己主張の原点があるような気がしてならない。この自己主張による利益尊守という考え方が、アメリカの訴訟社会を終わりのないものにしている様に思える。次回は、訴訟をすることで幸せを勝取ろうとするスー(訴訟)ハッピーなアメリカ人について触れてみたい。

小野沢昭志
1999年10月16日

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