ボスは迷文家シリーズ |
September11、強気ブッシュにみるアメリカの傲慢
アメリカの社会的背景
9日付けのNew York Times に9.11のNYについてのなかなか宜しい記事あった.Paul Auster という作家の 寄稿ですが、 しのごの説明もまだるこしいので図書館でよんでみて.全国紙にものってるとおもう. こういうintellectuals の手合いがめずらしくないから、あの街は アメリカ的で ひどくアメリカでは ないんでしょう.それにつけても Bush さんにはこまったものじゃありません? そこらへんのかたがた は彼についてなんといってます?
Bush is no good, Bush is stupid, Bush can't even spell right
もっと知りたいですか?
まあ 引っ込みがつかないといってもねえ.それにつけても Big Voice を持っている国と small voice それも世界の隅々になかなか届かないほどの声しか持たない国のなんと落差の激しいこと.
まあ、アメリカが世界に見せる BigBrotherAttitudeここにあり! という感じでしたね。
9.11 のあの仰々しいセレモニーは わたしにはブッシュのプロパガンダとしか思えなかった. 愛する者を失った悲しみは もっと別のところにありそうな気がするの.わたしはキリスト教徒じゃない から目に目をは 私の脳髄にはないしね.
そこがポリティシャンでしょう、、。 落ちているゴミまで人前で拾って、人気集めとする、、 その精神(演出能力)に長けていなかったら政治(戦略的操作)は難しい。 あのセレモニーは彼自身の売り込みには最高の場であった筈です。 しかし、限度というものもあるのだから、 あれに彼のやり過ぎに苛立った人は多かった
まあ サダム.フセインもキム.ジョンイルもはなして分る相手じゃないことは 一目瞭然. 一筋縄ではいかない狂人.小泉ちゃんもどうするんでしょうね.
彼の発言、 我々はテロに徹底的に戦う! は、気持ちだけに終わってしまうんでしょうね、、 何しろ、日本にはびこる理想主義は現実に即していないから、小泉さんはテロ抗戦への支持を得ることができない。
わたしは 彼に音楽会で御近所にすわって今日のプリマはどうだった こうだったと 彼が首相になる前によく話をしたんだけれど、そういうレベルでは とてもいいやつだった. 自然体でね.飄々としていて.とにかく 去年の9.11 の悪魔のような映像は、どこか ハリウッド的でしたが、今年のmemorialも負けず 劣らずでした. American culture の本質には ショー好きっていうことが徹底しているのでしょうか. ときとして底の浅さが垣間見える.
それは、この国がヨセアツメ社会だからだ、とぼくは思っています。 アメリカ云々いろいろ批判もありますが、ホモジーニアスでドングリ思考で 2000年やってきた日本と、様々な過去と文化を背負った様々な人種が 寄せ集まったアメリカとの間には、社会性の違いがあって当然だと思うのです。
アメリカにおける社会性.
基本的には
We will leave you alone as long as you stay within the law
要は、社会契約の精神が先行しているのです。
社会学的考察はStrangers next door です。
こちらでは仏壇に線香をたいているのですが、
オトナリではコーランを詠んでいる、、
二軒先では、また別のことをやっている。
以上の社会条件によって、 この国では表面だけを取り繕う socialization が発達したのです。 だから,見た目(演出結果の印象)が大切。 特にWASPの多い東部では、パッケージ(包装紙)が大切。 そして振る舞いもそれを意識したものとなります。 表面文化です。
逆に、日本には長い歴史と文化がありながら、これまた表面で Socialization がなされています。 Brandに走るその姿は、底浅な表面文化の様相を呈しているものでしかない、といえます。 Brandは全てに関わる:名刺のかたがき、出身校、親の仕事、、
日本は、みんながドングリでありすぎる為に、社会格差を示す為に表面を気にする。 アメリカは、同胞の殆どが異邦人であるが為に、表面で違いをみせる。、
アメリカについて誰もが語り、誰もが週刊誌知識でがアメリカを知ったつもりになってますが、 殆どの意見は、白人たちとの交流から身をもって得たものではありません。かなり偏っています。 アメリカを「知っている」人たちの殆ども、短期観光者か、現地日本村出身者ばかり。
白人の中級以上の社会には、肩書きや社会格差を気にする人が多くいます。 社会階級が上の者は下の者への対応に社会格差を示します。 その点、日本の方が自由です。 アメリカでは、上部の者達が親しみを込めて下の者とたちと接しますが、 これは余裕のある上の者が下の者に示す微妙な社会格差の刷り込み徹底です。
ぼくは、いちどNew England地方の半導体の大手メーカーをたずねたことがありました。 社長自らの案内。。 工場のラインを周る時、そこの従業員に親しく話す彼の姿がありました。 この社長は、僕にも親しく話し掛けてやってくれと頼んだ。 それによって、ラインのWorkerたちが、存在が認められた、として喜ぶから だ、 というのです。
案内が終わって、僕らは事務所に戻ったのですが、 工場側から事務所に入るには暗証番号が必要です。それは今でも多くの企業で徹底されているシステムです。 事務所の人間は自由に工場に出入りできますが、 その逆はありません。 アメリカでは作業服で事務所を出入りする姿はないのです。 これは別に階級差別ではありません。 防犯の目的もありますが、基本的には社会格差の冷たい現実を示すものなのです。
NYで、きちんとしたスーツ姿にピカピカのベンツでホテルの玄関にゆき バレー(バレットと発音しないでくれ!)パーキングをする時と、ポンコツのカローラで乗り込んだ時では 対応がハッキリと異なります。この点、日本もアメリカもかわりません。 表面(印象)で判断をしているのです。
以上をみていくと、アメリカとか日本にかかわらず、 社会格差をつけようとするのは、人間の性だと思うのです。 ヒエラルキーを組む猿社会、、 それにすぎません。
ユートピアを目指した共産主義思想はブルジョアジーを追放しました。 しかし、逆にエリートを台頭させた。 そしてそのエリートたちが実権をにぎり、エリートのヒエラルキーをつくりあげ、 彼等は権力をむさぼった。 これも猿社会のヒエラルキーとかわらない。
社会形態のあり方によって、印象的なものは異なりますが、 底の浅い表面印象によって社会性が決まっていく部分では、 日本、アメリカ、共産主義、そして南米、、どこも変ることはありません。
失われた3000の命は痛ましいけれど いま世界のどこでも それは起こっていて しかもことさら大きな声で語られる こともなく忘れられていく.
志賀直哉の死生観、、、
人の命は「大河の一滴」(五木寛之の言葉ではなく志賀直哉の言葉)と同じ。
消え去って忘れられていく。
これから何千年後も、大河は何千年も前と変らぬ形で流れ続ける。
一滴が消えたことなども感じないままに。
一度ならまだ理解できる原爆を 2度も落としたアメリカがはじめて 自国を傷つけられてこんなことがあってよいのだろうかと くりかえせば くりかえすほど そのごう慢さが浮き彫りになって 醜いアメリカになっていく とわたしはおもうのです.
これはアメリカ人の傲慢というよりも、 ブッシュによるプロパガンダでしょう。 それはニュースというステレオタイプ眼鏡を通してしか伝わってこない。
アメリカは、日本と異なってまだまだ市民による「行動をともなう」社会意識が強い国です。 WTOの時はシアトルで大騒動がありました。 今の日本では考えられないことです。 イラク攻撃の翌日、僕の友人の兄貴はサンフランシスコで 抗議の焼身自殺をしています。
僕が出会ったことがある年寄りは、原爆は不要であった。 アメリカは日本が降参する為に根回しをしていたことを知っていた。 そういってました。
であったにも拘わらずアメリカは原爆を落とした。一つだけではなく二つ。
僕の説は、
原爆が冷戦がはじまった時期のソ連に対する牽制であったということ。
ソ連に落とすことはできないが、日本なら言訳がつくし、
感情的にも当時の反日感情と黄禍風潮からすれば合意がとりやすいことだったのです。
当時のアメリカでは奴隷制度はなくなってはいたが、 黒人が激しく差別されていた時代。 生命の尊厳そのものに対しての傲慢があった頃です。 それは、アジア侵略していた日本とて同じ事 アメリカだけが傲慢であったとは思えません。
二個目の原爆、長崎は落下目的地ではなかった。 そもそも、二つ目の原爆「ファットマン」を運ぶ予定のB−29の飛行は、燃料ポン プ 故障とテニアン島近辺にきたスコールの為に、中止になろうとしていた。激しい 議論の末、決行となり、飛行機は目的地の小倉へと向かった。しかし、小倉の空は 厚い雲に覆われてなにも見えなかった。そこで投下地を小倉から長崎にかえた、、。 小倉に投下する理由は明確だ。軍の工場や施設があったから、、しかし何故長崎 か、、 要は何処へでも良いから落すことによって目的を達することができた。そういうことでした。
日本人には第二次世界大戦の被害者意識が高いですね。 日本が加害国としてこの戦争が始まったということを忘れている。 これは日本人の傲慢だと思っています。 アメリカが二個の原爆を落としながら、、、 とするアメリカ人の傲慢とちっとも変ることがない。 ぼくは間違っていますかね。
2002年09月13日
2002年09月13日