ボスは迷文家シリーズ |
弱肉強食とは人間の傲慢
仏教的考え方
仏教徒:
弱肉強食という言葉は、タテの関係ですね。
キリスト教はタテの関係が強くはないでしょうか。
小野沢:
キリスト教で縦関係が強いか弱いかは存じておりません。
仏教徒:
仏教はヨコの関係を大切にしますので、食物の連鎖はヨコの繋がりとしてとらえます。
また、「観念しなさいよ」という「観念」ですが、これは、仏教用語で「観想念仏」の略称です。
ですから、仏教は観念論と呼ばれています。
小野沢:
勉強になります。
仏教徒:
観念とは本来、想いを集中して、真理の観ずる修行をさすのですが…、
小野沢:
まあ、Food Chainをキリストの考え方と断定することはできません。
ユダヤ、イスラム、、はたまた仏教徒でさえ、アメリカに住む人々は、
教科書的に弱肉強食の順(虫はトカゲに、トカゲはヘビに、ヘビは鷲に、、)を
科学として受け留めています、、、。
この事実の認識に宗教は無縁だと思います。 ここに観念論が入り込むと、 早い話、1 + 1 が3ともなりうる、、という意見をいう人がでるのです。 その宗教を追う人同士がそれを語ることは差し支えないのですが、 問題は、その考え方で科学を覆そうとすることです。
事実を変えることはできません。 それはキリストですら同じ事。 処女のマリア様が受胎をすることはありえない。 これは科学です。 しかし、処女が受胎したことを認めるものがキリスト教です。 このように、宗教は観念にはいりこみすぎて科学を超越しようとしています。 そしてその説明は常に神の意志でうやむやになる。
Food Chainはありえない(食物の連鎖はヨコの繋がりとしてとらえます)とする仏教の考え方、、、 理想として、そうあって欲しいとする気持ちは理解できます。 しかし、その考え方で、実際にFoodChainの順で弱肉強食の事実をどう説明するのでしょうか?
仏教徒:
話を戻します。釈尊の悟りの中心思想は「縁起」ということです。俗に「縁起がよい」などと言われますが
本来縁起とは釈尊の悟りの内容なのです。縁起とは「よりておこる」という意味で、すべてのもの事は
他と関係無しでは起りえない…ということです。私たちの周りを見回しても、あらゆる存在は相互に関係しあっている。
水は液体になり気体になるように、、、あらゆるものが原因や条件によって、変化し、移り変わって行きます。
小野沢:
それは普遍的なことですね。
仏教でなくとも、Food Chainの存在もそういう風に受け留められています。
仏教徒:
食べものについても同じです。自分1人で作るものはなく、多くの条件が拘わりあって、他の恩恵に縁って与えられる
という、因、縁、果、の相互依存の世界を現わしています。雨の音がしますと、落ちた所、触れたものに縁って音色が違ってきますよね。
硬い音、柔らかい音、間隔をおいて発する音、全て、水という色も音も形もないものが様ざまなものに触れることに縁って起る。
小野沢:
上記とおり
仏教徒:
私は「縁起」をそのように理解しました。弱肉強食は人間の傲慢さが垣間見える気がします
キリスト教の教えにはないものだと思いますが
小野沢:
弱肉強食は、人間というよりも、野生の法則なのではありませんか?
ライオンはシマウマを襲う、、これを弱肉強食とよぶのですが、これが人間の傲慢だとは思えません。
仏教徒:
蟻の食べものは蟻の素質、環境、経験、努力などに依って、得られるという、すべての生物同じです。
籾の種子は水分、温度、太陽、人手、肥料に縁って稲に成長します。すべて、縁起していることを
仏教は教えています。。
小野沢:
木々の葉を食べ尽くすアブラムシを蟻が食用にしますが、仏教では、これが弱肉強食ではないのですか?
庭にミカンの木があれば、葉がアブラムシに食い尽くされることを知ります。
それをカマキリや蟻が食べる、、僕はこれを弱肉強食と理解しているのです。
これをそうでない、とする考えは、科学を否定する観念のアソビ(傲慢)だとしか思えません。
夕べは、Live Crab の夕食、、 弱肉強食をしたのですが、ビールも入って美味しかった。 人間の傲慢なのでしょうね。 でも、魚肉、四つ足肉、トリニクを否定したら、野菜だけで生きなければならない。 すると蛋白質やカルシウム不足になり、人間の細胞は劣化を続けるだけ。 大豆で補給すればいいんでしょうが、そのような食事インフラがないわけだから、 我々はどうしても生き物から蛋白質を摂るわけです。 当然、人間が生き延びる為の傲慢ですが、これはFoodChainの頂点にたつ人間 だからできること。これを否定しても、同時に動物蛋白質を摂って生きているわけで すね。 でも事実を変えることはできないのでは?
仏教徒:
弱肉強食は一見して不平等です。
小野沢:
不平等を良しと主張しているのではなく、
それが現実だという認識をしているだけです。
仏教徒:
弱いものが強いものの餌食になるという考えは、人間の側の発想です。
小野沢:
人間の発想であろうがなかろうが、これも現実です。
それを短い言葉で表すと弱肉強食となるだけで、
これも現実の認識をしたまでです。それが正しいから
そうすべきだ、と言っているのではないのです。
仏教徒:
ライオンがシマウマを食べるのは、ライオンが強いからではなく、ライオンが生まれ持った性質だからです。
小野沢:
その論理を発展させると、人間が弱肉強食の頂点に立つのは人間が強いからではなく、人間の持った性質となるのです。
そこで、ライオンは正しいが人間は正しくないとされるのですね。
仏教徒:
象が草を食べるのは弱い、おとなしいからではなく、象の命の要求だから。
小野沢:
それはどうですかね。こういうことだと思います。像はおとなしいから、他の動物を襲うことができなかった、、
それで草食動物へと変化した。これは科学的な考え方です。
人間は元来猿であったが、木々の生活が不要となったから尾が退化した、、同じ事です。
仏教徒:
縁起という普遍的な法を発見して、2500年前釈尊は仏に成ることができたと言われます。
今では、ごく当り前のことですが…。
ある蝶は山椒の葉だけにしか、卵を産み付けないそうですが、蝶の智慧でそれを選んだのではなく、 チョウは、縁に催されてせざるを得ない。
小野沢:
それを縁と断定することは仏教の教えという原語を相互理解する人たちの間のみに通用する認識でしか
ないのでは、、科学的な現実を語っている時に別の原語を用いて事実認識を弁証法的に発展させると、
話はそこでとまります。
仏教徒:
牛は草を食べるということは、驚きですよね。> ネズミを食べないで、何故草なのでしょうか、
弱肉強食の世界は、仏教には無いのです。> 業縁に導かれて、牛が草を食べ、人間が牛を食べる。
小野沢:
牛がネズミを食べずに草を食べる、、これは驚きでもなんでもありません。
牛の身体が小動物を襲うようにつくられていないからです。ある動物は草を食べ、別の動物は草につく虫をたべ、
鳥は草の種をはこぶ、、そしてオオカミや蛇のようにネズミを食べる動物もいる。全てがFoodChainの中で廻っているのです。
それで全体のバランスが保たれている。これが科学的認識です。
仏教徒:
強いものに食われて情けないという、発想が消えて行きます。現実に、怒りや苦悩が薄められるのですが、
それは、他者と自分を、水平線上で見つめることが出来るからだと思います。上下という考え方から
ヨコの流れに転換されるのだと思います。
小野沢:
宗教が普遍的なものであることはわかりますが、
行使者たちによって宗教のかたちが歪められていることが現実。
どの宗教も行使者たちによって大きく曲げられている。
それは何故か、、宗教にすがる信者たちは救いを求めているだけに純粋ですが、
そうでない宗教者たちはただの凡人にすぎないから、
我という煩悩を乗り越えるどころか、我に支配され続けているのでは?
ということは宗教は人の観念に大きく影響を与えることはしたが
現実としての行為はかえていない。
結果、言っているだけで行動がともなわない偽善者が増える。
多くの人たちが宗教の限界をここにみています。
仏教徒:
飛行機の中で10000メートル上空から、親潮の流れを見て、「地球は循環している!」と声を
上げた方がいます。11月、アラスカ上空5時間ほどの地点で、ジェット機の進行方向に
ゆっくり動く大海流が見えたそうです。私の尊敬する先生ですが、大きな命の流れに生物はすべて等しく吸収されて往く、そう
お話されました。
小野沢:
それは、その場にいたその人の感傷がそういう思いにさせたのでしょう。
それはそれでいいのです。
それが科学者であったなら、また別の見方をしたことと思います。
同じ現象でも、見る人の思想によって大きくことなるのです。
素晴らしい人がこういう感想を述べたからといって、
それだけが絶対性をもつということもありません。
僕も、今までの人生において、ふつうでは出会うことができない大自然と出会ってい
ます。
その時おりに受ける感動は、その時折の己の強弱や思想によって異なるのです。
絶対性はありません。
その人は宇宙観として地球の生物を観たものだと思います。
大宇宙を考えたら、人間も虫も同じです。
2002月8月26日