ボスは迷文家シリーズ


危機管理意識 安全への認識 自己責任


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先日、明石花火見学事故で10人の命が失われた。幼児を連れた両親そしてご 老人たちが寿司詰状態の中にいた。この事故のすぐあとで、私は自己の安全管 理はどうしたのだろうか?と問いかけた。知り合いの編集女史も「君子危うきに近 づかず」の精神が希薄であると指摘した。管理者側の責任問題を避けて通ること は出来ないが、私は事故が発生するやもしれない場所だという危惧をもたなかっ た見物客の自己責任を問う。

日本人に危機管理意識が希薄であるということは今までに語り尽くされてきたこと だ。明石の事故もそうである。昨日、私は実習生とともに32キロのサイクリングを やった。トレールから道路に出る時やターンをする時に、彼女が前後の確認を怠っ ているようなので、彼女に聞いたら、確認をしていなかったと応えた。リーダ―とし ての私の後についていれば安全だと思ったのだ。彼女に説明をした。リーダ―が 示すエキスパートな部分は彼女にとっての目安でしかない。最終的な安全判断は 彼女自身がしなければいけない、ということだ。20分後に同じことを説明した。再 度確認を怠ったからだ。三度目は大転倒をした。

自己責任の自覚認識能力は各自の生活パターンによって異なるものなのだろう。 私の場合、独りでジャングルの中に住むような生活をしているから、危険に関して は敏感で、危険が迫る前に感知して対策を考えている。大企業に自分の命を託し て身を守ろうとする考え方したことは今までにもなかった。企業には企業の都合が あって、歯車のひとつでしかない社員の命運はその都合の内にあることを若年な がら理解できていた。企業の都合というのは株主に対する責任である。その責任 をマットウする上では工場閉鎖や従業員のレイオフも含まれるし、不要社員のレ イオフもある。

企業の命は30年と言われていたが、70年代からアメリカの経済を見ていた私に は企業と従業員の関係がギブ・アンド・テイクの関係の上に成立することを具体的 なものとして知っていた。ギブができない社員はテイクすることは許されないのだ。 ギブできない社員にもテイクさせる企業は崩壊する。共産主義社会の中の企業は 国家に支えられてきたから成り立っていたものの、企業自体そのものが国からテ イクし続けて国家経済を崩壊させた。

世の中には絶対ということはありえないのである。絶対の対極にあるものは不確 実である。不確実性へ準備できるか否かは個人の責任である。究極的には国か らも裏切られた華僑やユダヤ人の生き方に自己責任のあり方を学ぶ事ができる。 しかし日本人は、余りにも観念的すぎて、具体性が求められる危機管理の能力に 欠ける。今でも、黒人を悪のバスケットに十羽ヒトカラゲでいれて、善意の黒人の 心を傷つけて、キリストのような風貌の白人を奉って挙句の果てに酷い目にあって いる。これは黒人が悪で白人が善人という普遍的な考え方の結果である。

アメリカ人はレイオフをされても会社を恨むことをしない。アメリカは共産主義では ないのだ。不要社員の面倒をみていたら投資家達の利益に反するだけでなく、間違 えば企業の屋台骨をおかしくしてしまう。彼らはそのことを良く理解している。会社か らレイオフされた時、自分の力が至らなかったことを自覚する。そして次の勤め先で 至らなかった点を改める。アメリカでは、企業の買収や合併そして倒産が日常茶飯 事である。その度に職を失う可能性が高まることを自覚している。その為にも、彼ら は従業員としてのプロに徹する。彼らは勤め先の悪口や上司の悪口を言わない。 陰口が間違って経営者の耳に届けば即刻職を失う事を知っているからだ。それも 自己責任のうちだ。その点、日本のサラリーマン諸氏は会社の悪口を肴に酒を飲む ことが多い。勤め先がそこまで厭ならば辞めればいい。今辞めないのなら、会社に 良いアピールができるような仕事ぶりに変身すべきなのだ。それが自己責任という ものである。こんな甘さが彼らの自己責任能力を低下させている。

おのざわショージ
08/01/02

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