ボスは迷文家シリーズ

長くいれば長くいるほど親しい仲間が消えていく 米国自転車界に漬かって20年


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僕はアメリカの自転車業界に入り二十年の時を過ごしてきた。ロードバイク・ブームの末尾、マウンテンバイクが土を押し上げて顔を出そうとしていた頃だ。当時いたロードバイク時代の業界人の殆どは、マウンテンバイク・ブームの新人種の登場と入れ替えに、1980年代後半までには消えていった。そしてそのマウンテンバイクの連中が、1990年代終わりまでにはいなくなった。そして2000年を迎えた今、僕だけが取り残されている。

1999年も押し迫った十二月三十日の夕刻、僕は一人のサイクリストの友人から電話をもらった。「今日の昼過ぎにシアトルへ着いたばかりだけれど、時間がとれたらお寿司屋さんで夕食はどうかしら?」。 べッツィーは元USナショナル・スキー・チームの一員。現在はアイダホ・ロッキーの高級スキーリゾートとして名高いサンバレーでスキーの個人レッスンの仕事をしている。そんな彼女は雪が解けるとサイクリストに変身する。当年43才だが、僕と出会った十二年前はバリバリのトライアスリート。ハワイのアイアンマン・レースでは年令別の優勝もしたことがある。

参考までに、夕食の会話の中でべッツィーは興味深い話しをしてくれた。サンバレーには映画俳優などが住んでいて、彼女はそうした人たちを対象にスキーを教えている。クリント・イーストウッドのガールフレンドに教えた時には、夕食に二人を自宅に招待したこともあったという。サンバレーにはシュワルツネーガーが住んでいるとも話していた。「彼はJerk(嫌な奴)よ」、という彼女は言うのだが、スクリーンを通じたキャラクターしか知らない僕はそんなものなのかな、と思うしかなかった。更に、彼の女房は彼以上にジャークだと言っていた。反面、イーストウッドは彼女が恐縮したくなるほど人間味が豊な人だそうだ。

アメリカで自転車をやっている連中には元スケート選手とかスキーヤーが数多くいる。スケート選手は自転車でも活躍する。代表的な例がエリック・ハイデンであろう。女子選手に今はリタイヤーしたべッツイー・デービスがいる。彼女はオリンピックの金メダリストのスケート選手でありながら、自転車レースでも何度も優勝している。彼女が現役の時代は、シアトルで試合があると合間に僕の家を訪ねてくれた。当時はオリンピックで銀をとったネルソン・ベイルズ。金のマーク・ゴースキー。そしてツール・ド・フランスでイエロー・ジャージーを勝取ったアレックス・スティーダなどもレースの終わったあとでみんな我が家に集まったものだ。そんな彼等も今では引退し、シアトルへ来る事もなくなってしまった。僕は若い世代の選手たちとは交流がないので、最近はシアトルでレースがあっても行くことはなくなった。自分が歳をとってしまったのかなと思うと淋しい気がする。しかし、今年はアラスカからシアトルの間をオートバイで走る予定にしているので、帰路カナダのエドモントンに住むアレックスの家に立ち寄る計画だ。とても親しかったネルソンは最近行方不明になってしまった。アメリカの選手はみんな強いからオリンピックでもメダルを総なめしてしまう。石を投げるとメダリストにあたってしまうくらい沢山いる。だから金を獲ったくらいではスターにはなれない。どこかの国では銅メダルをとっただけでテレビ・スターだとか代議士になってしまうのだけれど、アメリカでは普通の人のままだ。仮にメダルがテレビスターへの切符だとしたら、僕の友人は有名人ばかり。当社の美人選手のシャンにしたところで、橋本聖子が予選通過すらできなかった自転車のスプリントレースの世界選手権で金メダルをとりながらもスターではない。稼ぎもないから、いつも昼時になると僕の事務所にきてたかっている。

スキーでは、親しい友人にデンバー在のエリック・サンプソンがいる。彼は元USスキーチームのメンバーであった。彼がK2の為に開発したバインディングの原理を使って自転車のペダルを作る時に、そのプロジェクトを僕が手伝ったことがきっかけで親しくなった。17年前のことであった。彼の初めての日本訪問は僕といっしょ。東京滞在中は僕の食べたいものを中心に食事をした為、日本は初めての彼が最初に紹介された日本食がレバニラ炒めとモヤシソバであった為、それが今では彼の大好物となってしまい、今ではデンバーの日本飯屋にレバニラがないことに憤慨している。

シアトルの僕の客にエステル・グレーという女子選手がいる。彼女は十数年前に9日間と16時間でアメリカを自転車で横断した。ギネスブックの記録を持っていた(今は破られた)。レズビアンなので結婚はしていない。しかし強い。ワシントン州の800キロ横断レースでも優勝をしているし、片道だけのシアトル・ポートランド間も彼女は往復してしまう。彼女はエキストリームなアスリート。嵐がくると荒れ狂った海にカヤックで乗り出す。キチガイも甚だしい。南北大陸を縦断した際には、危険だからよせという周囲の反対を押しきってパナマからコロンビアを陸路進んだ。パンアメリカン・ハイウエーはパナマで終わり。パナマから先はコロンビアのジャングルで道が途切れている。そんな場所を、自転車を肩に担いで一週間のトレッキングをしてコロンビア側のハイウエーに出た。彼女にはコロンビアの犯罪組織もジャングルも恐くなかったようだ。

余談になるが、彼等のところに日本の自転車雑誌社が取材に来ると決まって、「貴方の自転車に対する思想は?」といった類の観念的な質問ばかりをする。そして彼等の応えはみんな、「乗って楽しむ事!」とこれも決まっている。僕は、20年間アメリカに住んでいて、観念の日本と行動のアメリカという差を数多く見てきた。良く言えば、日本人は理想論で着飾った哲学的な話を好むが、全ては精神世界の中だけのことで行動が伴う事が少ない。悪く言えば、いい事ばかり言ってそれを楽しんでいるだけ。ナイキのコマーシャルに「Just Do It」というのがあった。御託ばかり並べていないで行動に移せ!ということなのだが、はじめに行動ありのアメリカ人にはピンとくる言葉である。

アメリカの自転車マニアはより良い自転車の機能を楽しむが、日本の自転車マニアには、いい自転車は飾ってそれを眺めて楽しんでいるキライがつよく、実践サイクリストたちの影が薄い。日本では専門雑誌が「マシンの美しさ」だとかの感性や観念の部分だけを語り、自転車とは乗る為の道具であるという考えを置き去りにしていることが多いのだ。編集者たちにサイクリストが少ないことも原因のひとつであろう。彼等には所有の喜びとか飾る喜び以外に自転車を語る事ができないので、どうしてもこうした傾向に進んでしまうのであろう。

十二年前、アメリカ大手自転車雑誌の記者といっしょに日本へ行き、ある自転車雑誌社の編集部を訪ねたことがあるのだけれど、僕は恥ずかしい思いをさせられた。編集室は煙草でモクモクしており、対応してくれた編集長は自転車に乗った事がないという。健康意識が高く、編集部全員が週に300キロは走るサイクリストばかりのアメリカの雑誌とは大きな隔たりがあった。

アメリカのサイクリストには意識の高い人たちが多い。当然、弁護士、会計士、学者、創作家、会社重役などが含まれる。昔の知り合いにステュアート・スローンという人がいた。エッグヘッド・コンピューターソフトウエアー、QFCスーパーマーケット・チェーン、シャックス・オートパーツなどのオーナーだ。彼が自転車キチガイで、クレタ島だとか、アフリカだとかへ自転車旅行に行っていた。その時に僕の旅行用の自転車ケースを借りに来るのだ。金持ちのくせに無駄遣いはしない。一度借りると必ずQFCのギフトカード$50をくれた。そして僕は儲けたと思って喜んだ。

僕がマーケティングのコンサルタントをやった会社にブラウニングがある。Browningだ。ブローニングと書けば日本人で知る人もいよう。そう、ジョンウエインの映画の中でも語られていた世界初のオートマティック・ライフルで有名なブローニングだ。三代目がシアトル沖の島に住んでいて、会社をベルギーの拳銃メーカーに売り払った後、島住い。金持ちすぎてやることがない。趣味で自転車部品の商売を始めてしまいそれで閑つぶしをしている。家族6人が全員このプロジェクトを楽しんでいて、僕と知り合ってから既に15年にもなるが、まだ商品化を急いでいない。その間に子育てが終わったお母さんグロリアさんは大学院へ進み、12年前にはスタンフォードで修士号をもらった。夏になるとイタリアの田舎にあるお城をひと夏借り切ってそこで毎年過ごしたりする。カシオのデジタル時計の時間に従っている僕とはペースが異なっている。

アメリカ人の中にも金銭的に信用できる人がいる。僕はお人好しで馬鹿な為、けっこう倒産により引っ掛ったりもしているのだが、倒産後自宅を売り払ってきちんと支払いをした人がいた。ピート・モレーという昔気質のオッサンだ。ロードバイク・ブームの終焉とともに消えていった。倒産後一年して僕があきらめていたら小切手が送られてきた。僕は期待もしていなかったので感激した。当時のお金にして120万円ほどだった。だけど、こういう誠意のある人はあとにも先にもピートだけだった。昨年はニューヨークに住むインド人に70万ほどやられた。シカゴに住む男など三度も会社を倒産させた後シャーシャーとしてコンヴェンションに来て親しく話し掛けてくる。倒産の度に支払を踏み倒している上でのことだ。マリンという会社のオーナーは、お金がないといって踏み倒したその翌月には僕と台湾行きの便を待っているときに出くわした。彼はファーストクラスであった。全員がこういう人たちばかりではないのだが、悪はどこにでもいるのかもしれない。

昔の親友にアンヘル・ロドリゲスという国籍不明顔の男がいた。顔は黒人っぽいのだが、どうもそうでもなさそう。現在はパナマで暮らし、アウトドアー用品のチェーン店REIの役員もやっている。この店は今春新町田に日本第一号店をオープンする。このアンヘルがアタマのいい男で学ぶことが多い。

アンヘルはパナマ出身の現在アメリカ人。 オヤジはプエルトリコ出身でオフクロはパナマの先住民族。パナマで生まれ育った。大学そして大学院とワシントン大学で終了し、自転車店をOpenしたのだが、その前に自分のマーケティングの為にイタリアに一年間行き、そこで自転車のフレーム造りを習った、と彼は言っているが真相は誰も知らない。ショップはワシントン大学のエリアで、店の名前はR&E。 Rodoriguez& Ericksonの略だ。自転車フレームビルダーのグレン・エリクソンを相棒にして始めた店。カスタム・ビルダーが二人ということで、自転車好きが集まる店となるのには時間がかからなかった。しかしフレーム造りはグレンに任せ、自分は商売に専念。シアトルの人気店に育てあげることに成功した。将来がよく見えたアンヘルは、グレンから彼の持ち株を買い上げるとR&Eを自分の店にした。そしてマウンテンバイク・ブームがピークに達した頃、インベスターに店を売り、自分では5000万のキャッシュを懐に収める事になった。

店舗の売却から手にした頭金2500万のキャッシュをもってパナマに移り、ビジネスホテルを建設し牧場を買い取った。パナマだからこそ可能なことだ。そしてシアトルへ戻りREIの役員選に名乗りをあげた。REIは共同体なので役員は選出される。自転車の本なども数冊出版していたアンヘルはシアトルの自転車界のグルとなっていたので、アウトドア系の住民なら誰でも彼の事を知っていた。だからREIの役員には難なく当選することができた。アンヘルの住いはパナマ、そして二ヶ月毎の役員会議はシアトル。アンヘルは二ヶ月毎にシアトルへ来るのだが、交通費はすべてREIの予算のうちから賄われる。かくして全て計算づくめのこの男は自分の懐を痛める事なくシアトルとパナマの間を二ヶ月毎に行き来しているのである。

反面、早い時機に自分の株をアンヘルに売却したグレン(52才)は大学ちかくにある自宅裏庭の小屋で今日も手を黒くしてフレーム造りを続けている。一本3000ドルもする彼の自転車フレームは丁寧な手作り、一本一本丁重に仕上げる。一年に30本しか作ることができない。細々と暮らしている。彼はそんな生活に嫌気がさして、自転車ツアーの会社を興した。スイスアルプスをロードバイクで走るツール・ド・スィッツアーランドだ。今では年に三回まで成長。グレンとガールフレンドの渡航費まで収入からカバーして、好きな自転車でアルプスを廻っている。時折イタリアに住む彼の友人アンディー・ハンプステンも参加するのでツアーの名声を高めてくれる。何故なら、アンディーはアメリカ人として始めてジロ・デ・イタリアで優勝した選手だからだ。ジロはツール・ド・フランスのイタリー版である。

グレンの自転車工房には金銀のメダルが沢山無造作に吊るされている。一部はグレン自身が獲得した全米選手権のメダルであるが、殆どは昔のガールフレンドであったオリンピック三回出場のレべッカ・トゥイッグのものだ。彼女のオリンピックのメダルまでが吊るされているとことを見ると、レべッカはオリンピック・メダルだからといっても余り気にしていないのかもしれない。

因みにインベスター・ジム・ビーズビックに売却されたR&Eは、現在は前述のエステルがオーナーとなって運営されている。ジムは調子にのって店を拡張し倒産させてしまったのだ。アンヘルの手に戻されたR&E、彼は昔からの従業員であったエステルに頭金なしで譲渡し、その分毎月の支払分を多く支払ってもらっている。尚、アンヘルはパナマの雨期にはメキシコのバハ・カリフォルニア半島で過ごすというリッチな生活をしているが、決してスーパーリッチではない。日本のサラリーマンの方が彼よりもリッチであろう。アンヘルが費やしている金額は、日本の彼等がブランド製品、飲み食い、そして海外旅行などに費やしていた金額にも達していない筈だ。アンヘルはお金の運用が上手なだけである。

ジェフ・リンジーは僕の親友である。マウンテンバイクのパイオニアーのひとり。日本でも知る人ぞ知る人気があったマウンテン・ゴートという高級自転車フレーム造りをした。小学館のBePalという雑誌がマウンテンバイクの紹介を初めて紹介をした頃、この雑誌の表紙を飾った事もあった。ジェフはアーティストである。元々はガラス工芸にのめり込んでいた。1973年に始まったバイク・ブームでロード・レースを始め、すぐに仲間たちとともにオフロードで楽しめる新しい遊びに入っていった。そしてその自転車で彼の住む街チコや近くのシエラネヴァダ山脈を走るようになったのだ。マウンテンバイクが、カリフォルニアのマリン・カウンティーから始まったと日本で紹介されているが、これはマリンカウンターでマウンテンバイクのレースがあったからで、最初に紹介した人たちがこれによってマリンカウンティーがマウンテンバイクの発祥の地と誤って報道し、そんな情報がそのまま定着したものである。マウンテンバイクは70年代初頭のロードバイク・ブームからの枝別れであって、同時期にはアメリカの至る土地で同時発生、東部でもコロラドでも発生していたものなのだ。

ジェフはガラス工芸の仕事よりも、マウンテンバイクの注文を多く受けるようになってしまった。なにしろ当時マウンテンバイクは自分たちで作らなければ手に入れる事はできなかったからだ。一台一台をこつこつと作り、ジェフは1980年に差し掛かる頃、量産体制をひきはじめた。量産とはいっても一年に百台にも満たなかったのだが、そんな仕事を続けているうちにマウンテンバイク界のグルになってしまった。僕はそんなグルを何人も知っているが、彼等の内の殆どが業界を去っていった。大手メーカーの参入、そして急激に変化してゆくマウンテンバイクのデザインについていくことができずに、彼らが生きる道がなくなっていったのだ。唯一残されているのは自分たちを上手に売り込む事に成功したフィッシャー、 クライン、そしてリッチーくらいなもので、マウンテンバイク第一号を制作したジョー・ブリーズはジェフに遅れて昨年業界から消えていった。

現在のジェフは、ガラス工芸時代に自分が開発した工具を自作してそれの卸しをしている。昨年始めたばかりなのだが、彼の開発した工具は、既にシアトル在の高名なガラス工芸師チャフリを始め数多くのアーティストに愛用されている。

ジェフの心には生活を楽しむ余裕がある。親友のビール会社(シエラ・ネヴァダ・ビアー)のオーナーと寿司ブラザースを組んで、ビール会社のパブで寿司を握ったり、仲間とともにブルーズの演奏に興じたり、近所のサクラメント・リバーに鮭釣りにでかけたり、そしてマウンテンバイクで尾根を走ったり。彼は観念的マスターベーションで自分をごまかしたりはしない、やりたい事はヤル男である。

ジェフは寿司を握るだけでなくフランス料理もやる。それも手が込んでいるのだ。彼の手になるポークロイン・ア・ラ・クルーズコントロールなんて最高だ。上質のポークロインをフォイルに包み、車のエンジンの上に置いて一時間走る。そしてピクニックやキャンプ地に着いたところで食すのだ。もちろんのことフォイルに包む前に味付けをする。当年50のこの男は人生半ばの転身に成功したのだが、この成功の鍵が彼の豊な遊び心によるところが大きいような気がしてならない

僕のアメリカでの自転車人生は、ロードバイク・ブームが終わりマウンテンバイクの芽が出始めた頃に始まった。この当時から親しくなった友人たちの全てが転身してしまい、僕だけが取り残されている感じがしてならない。彼等が僕の目の前から消えて行ってしまった今、遅れ馳せながら僕自信が人生の転換期に差し掛かっている。 残された身体頑強人生はあと十年いくばくかであろう。そんな貴重な時間をビジネスの事務処理に埋もれていたくない。最近はこの商売に見切りをつける頃かと真剣に考えている。

小野沢昭志
01/05/00

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