ボスは迷文家シリーズ |
個性を育てる上で必要な個人主義的考え方
和を尊ぶ精神は弊害?
個性を育てる上で必要な個人主義
輪を大切にする為に和が求められる村社会。個性が強く求められる時代になりましたが、個性的なもの
はなかなか生まれません。そこには個人主義的考え方と生き方が育っていないからです。村社会的な世間
体だとか掟によって拘束されているから、勝手(個人主義)なことはできないのです。集団を基準として
いるので、個人の心が求める独特な生き方をすることができないということです。
しかし、そんな彼等彼女らも自分たちが個人主義であると信じて疑いません。行動がともなわない
観念の世界の中だけで個性豊かだと思っているわけでが、行動面では今でも農耕時代の村社会
的拘束にがんじ絡めになっていて、身動きができない人が多くいることが現実。これでは囚人とかわらない
わけですね。この時代、飼い慣らされているという他に表現のしようがありません。手足ある人間が生きる
ということは、観念の世界だけで自由になることではなく、物理的な自由の下に個人の心が求める生活
を送ることなのです。村社会の日本、和を尊ぶあまり、個人主義的考えや生き方を抑えつけてきました。
これで個性が育つわけがないと思っています。
日本人は村社会の農耕民族だった
日本は、もとより農耕民族によって構成されていた村社会でした。村社会での共同作業、それをともにいわ
う豊作祭り、村八分、、、常に団体行動が基盤となっていて、出る杭は打たれるの喩えではありませんが、
個人行動が許されない社会に人々は生きてきました。
革命経験がない
日本人は、貧困であったにもかかわらず、革命を経験しておりません。明治維新はクーデター、もしくは
反対勢力による徳川幕府の転覆といった方がより正確だと思います。百姓一揆は窮鼠猫を噛む的なもので
しかなかったし、政治意識に基いた一揆を組織化したわけではありませんでした。日本の国民は自主性を
もって政治参加をしなかった、ということです。常に、儒教の訓えに従って、耐えること、目上には逆らわ
ないことなどを教えられてきました。その点、アメリカは異なります。生活の困難があれば「耐えて良き日
を待つ」受動性ではなく、「躊躇せず障害物を取り去る」能動的行動をみせます。
観念の世界で自由に
往々にして、日本には行動がともなわない観念論だけが飛び交っています。現実の戦争が理想論に近い形で
語られるのです。実践とは、理想と現実の妥協にあるのですが、理想論者たちは、この妥協を許しません。
しかし元々行動がともなわないひとたちだから、実践の何かがわかっておりません。そういう人たち同志
がアフガニスタンで戦争がおこなわれている時に、全く現実にそぐわない討論で青筋をたてている姿を目
にすると僕にはその姿が滑稽にしか見えなくなります。政府野党も、常に理想にそぐわないから、という
追及だけをやり、与党も理論的な違いを論破することができないでいます。
個人行動が許されない日本村社会、、誰でもが波風の立たない事をやっている(=個人行動をとらない)。
しかし、それで気持ちがスムわけがないから、誰でもが観念の世界に入り込んで、想像だとか夢だけを語って
いるの(だけなのです)です。
責任転嫁
要は、個人主義が許されない社会、主体性が許されない社会に生きてきた多くの人たちは、自分が行動を
とらないものだから、結果責任を他の人にもっていきます。いとも簡単に責任転嫁をするのです。個が喪失
しているとしかいえませんね。個があれば、結果というものが自分の主体性の結末であることを自覚して
います。アメリカ人も責任逃れをしますが、それは主体性に基いた行動結果への罰を逃れる意味での方策
です。これを好しとしているのではありませんので誤解なきよう願います。
助け合い
村社会には助け合い精神があって、それが日本人の社交上の美徳となっています。しかし、そこには限界が
あります。個人の意志として、例えそれが独りであっても助けるというところまではいきにく
い。常に、お隣さんを気にしています。
お隣でもやらないから、うちもやらなくてもいいんではないか、、、
お隣もやっているから、うちもやらくてはまずいだろう、、
誰も助けてくれなかった、と他人の所為にする
以前、困っていた時に誰も助けてくれなかった、と言った人がいました。個人主義が強い僕はこの発言に
違和感を覚えました。この人は助けを期待していたのか? しかし誰も助けてはくれなかった。個人主義的
傾向強く生きてきた僕にしてみれば、結果責任は常に自分自身であったので、こういう言葉が平然として
でてくることに戸惑いました。この人の場合、日本が美徳としている助け合いの精神はこの人にはさしの
べられなかったのです。助けを求める側の考え方に関してみれば、これは終身雇用制、、会社が将来面倒を
みる(助けてくれるという期待感)という暗黙の了解で人間としての主体性を会社に委ねる気持ちに似てい
ると思いました。
助ける、ことは日本人だけの得意技ではない
村の共同作業などを通じて日本人は助け合いの精神を身につけてきました。それを日本独特の美徳と思って
いる人と出会うことが多々あります。しかし、僕は助ける優しさが日本人特のものではないと思っています。
欧米の個人主義者たちは、行動を示して助けます。世界の貧困地帯で、個人の資格でボランティアー活動を
やっている人たちの数、、、。圧倒的にヨーロッパとアメリカ人が多いはずです。ところが、日本では助け
合いどころかお金を払って済まそうとする傾向すら強いですね。助け合いの美徳は何処に?と疑ってしまい
ます。
でも、ここで注意してください。欧米人の場合は助け合いではないと思うのです。助ける、という 一方通行です。助け合いには、次にこちらが困った時には助け返してもらうことへの期待があるのではな いでしょうか。少なくとも、アメリカ人がボランティアーをやる場合は、個人の正義感などの自己納得の ためのものであって、それは無償の汗の提供です。日本の贈答のような、お返し、を期待することは、 こちらのギフトにはありえないのです。
英語で、GiftとPresentはニュアンスが異なります。Giftには心の思い入れが強いのですが、Presentは どちらかというと即物的です。何れの場合にも見返りへの期待はありません。しかし、贈答、、には答と いうように、返が含まれていますね。ここに日本の助け合い精神の優しさの限度が感じられてしまいます。 Give&Takeの精神は日本では誠意の世界まで広いのではないか、とまで勘ぐってしまうほどですね。
日本の良い面
日本の良い面にも触れたいと思います。ですが、今の日本では悪い面が圧倒的に目立ち、良い面が角で小
さくなっているような気がします。
村社会の原点が和の精神にある
日本特有の、「和」の精神、、、。良く考えると、村社会を保つ原点がここにあるような気がします。
だから、集団の仲間たちは、いつもニコニコ顔の八方美人をやる。これも、個人主義が育たなかったから
こその特徴ではないでしょうか。ドングリ平均点教育にしても同様です。集団の仲間たちと同じならばいい、
とする均一的価値観、、、。だから出る杭はスグに打たれてしまうのです。これで個人主義が育つわけが
ありません。こんな理由から研究者やオリジナルな人たちの日本流出があると思っています。
はっきりといって、日本で抜きん出るとヤッカミや意地悪からの邪魔まであるから、そんな平等主義的
集団社会ではやっていけないんではないでしょうか。
平等と公平
日本の職場での労働者に対する富の分配の仕方は平等を基準としてますが、これは共産主義的なもの。
そこには公平がありません。これは、今さらということではなく、村社会ができてからのものだと思い
ます。村社会そのものがコミューンですね。共産主義思想は科学として成立したかもしれませんが、
それは過去の経済形態の時代までのこと。経済階級を、有産階級と無産者階級にしか分けなかった。
中間階級やエリートの台頭、競争の原理、そして人間の心理などを全く見落としていたわけです。
共産主義に顕著な独裁者たちは、政権の委譲すらを息子などの家族にひきわたすわけです。キューバの
カストロ将軍が現在それを計画しているそうです。過去、彼は革命の英雄だったかもしれませんが、
現在では彼の個人エゴ(心理)が政治を我が物にしている。革命後40数年、、、政権交代すらな
かった個人独裁でした。そして、ヒエラルキーにしたがってエリート官僚たちによる支配体制が
警察権力的になっているのです。北朝鮮は知るがごとし、中国でもそうでしたし、今でもそうです。
ルーマニアのチャウシェシュクも酷いものでした。 平等社会に見られる傾向のような気がします。
日本に個人主義を育てなければ、ネット社会での国際競争には大きく遅れをとることでしょう。何しろ ドングリが考えることは右へ習えで誰もがいっしょ。これではオリジナルなものが生まれにくいわけ です。オリジナリティーがなければオリジナリティーのある国に負けるわけです。その為には、個性 を育てることが大切。しかし、個性を育てるということは、個人主義という土壌が初めて可能だと思 いますので、今でも村社会に生きる人の間からは生まれにくいもの。それだけ日本は、欧米から大きく 引き離されることになると思います。今の日本は欧米各国からの特恵のもとに取り引きをやっていた時代 とは異なる再出発が求められているのです。
おのざわショージ
04・13・02