ボスは迷文家シリーズ |
日本的な非論理性 平和は維持したいが防衛は許さない
戦後民主主義が日本にもたらされ、日本国民は平和で"いられる"ことを当然と思うようになった。 そして我々は平和で"いられる"状態に安心しているだけで平和の維持が保たれるものと信じこんでいる。然しこれは、普遍的な平和の追求と現実的な平和の維持とを混同した、極めて日本的な非論理性ではないだろうか。
太平洋戦争では、二百万人を超す日本兵たちが死んでいった。 "お国の為"に戦って死んでいった兵隊たちも数多くいたが、軍の幹部が勝ち目のない戦であることを知っていながら兵士たちに玉砕を強いたのだから、彼等の死はいったい何なのだったのだろうか。兵士たちは日本軍という他者の口出しが許されない絶対主義の中で、まるでベルトコンベアー上を流れる部品の様に使い棄てられていった。 何十万人を投入したところで勝ち目がなかった戦で、兵士達は意味のない死を強いられたのだ。
軍の幹部たちも国家というお題目の元に、自らの"業"、即ち、真の意味での国益の為ではなく、本人達だけがもっていた精神論に従って国民を兵役にとりたてて、そして戦死させた。負けると分かっていた戦の中で、兵士たちを殺していったのだ。 全てが彼等の信じるところの精神論で運営されていた。これは非合理性の上に成り立った日本的非論理性だとしか言い様が無い。
隣に何をしでかすか予測のつかない北朝鮮が、日本に向けてミサイルの射程距離を合わせている(に違いない)にも拘わらず、日本国民は平和維持を目的とした拮抗の為の努力をしない。従って、日本の領空を飛び越えたミサイルの演習があっても、政府は"遺憾であると苦情を述べるだけだし"、国民も北朝鮮に向かって抗議をしない。新橋の飲み屋で帰宅前のサラリーマンが気炎をあげるのが精一杯だ。何ゆえ、日本政府はここまで弱腰なのであろうか? それは戦後民主主義によって、国家を破局に導いた前近代性を平和という普遍的な観念に置き換えをしてしまった"だけ"だからであろう。日本精神論のコア−となっていた非合理性や論理性の無さを変革することがなかったからではなかろうか。 終戦は平和をもたらしてくれたが、国民の意識改革までももたらしてくれなかった。 日本国民にとって、平和とは勝ち取られたものではなく、ただ単に与えられたものなのでしかなかったのだ。ファシズムが平和と置き換えられただけに過ぎない。この置き換えを国民は歓迎した。今では平和が当然であるとすら信じている。然し平和維持の為に、国際間の政治の均衡が必要であるという認識を、政府も国民も持つまでには至らなかった。
平和の維持は、日米安全保障条約だけに任しっきりにされていた。そして平和を望む、というよりも厳密には軍国日本を回避する気持ちの強い国民は、日本から軍隊を排除するだけで日本は平和でいられると信じ込んだ。 世界が日本を中心に廻っている限りそれも許されるのであろうが、極東には中国、北朝鮮、そしてソ連があった。そんなソ連が崩壊し、中国が市場経済を取り入れていく中で、今でも北朝鮮だけがかたくなに前近代的な軍国共産主義を維持している。彼らこそが日本の隣国であり、日本の平和への脅威なのだ。
つい最近、北朝鮮の潜水艦が韓国の海域に入り込んだ。そして、それに続くのミサイル事件。このことは、正に北朝鮮が極東の平和への脅威となっていることを意味している。 にも拘わらず、国民はもとより日本国政府の間ではその危機感が希薄だ。平和を喜ぶ為には、その状態を維持する為の努力(政治)が必要なのに、それを許さない考えがはびこっている。軍備は軍国主義であるという短絡的な考えで、ヒステリカルに防衛までに反対する。これこそが日本的な非論理性だと僕は思うのだ。
小野沢昭志(9・6・98)