ボスは迷文家シリーズ

理性と感情の区別


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理性と感情を区別できない人が多いので困る。事実関係とは、聞き手が好むと好まざ るに拘わらず事実でしかないのだ。事実を述べた次のステップで語り手の意見として の方向性が述べられる。これが論理に基いた思考の発展方法である。日本人の思考 回路では、論理的な考え方が欠落していて、事実の口記述を個人的な意見と区分けし てプロセスすることができないことが多い。


最近のマーケットをどう思う?こんな質問を受けて、僕なりの冷静な答えを出すと、もっと 前向きなことを言えないのか、と批判されることがある。僕はつくづく疲れてしまう。状況分 析を問われて僕の見方をご披露するのだが、マーケットが冷え込んでいるという見方だと、 僕が後ろ向きだからそういう見方しかできないんだとする答えなのである。これは理論の 混同である。冷えたマーケットを直視した上で、どういう戦略をとるかという別の論理があ る筈なのだが、分析と戦略をごっちゃにした考え方をする人が多い。

僕は、96年に「日本の経済は崩壊する」というエッセイを書いた。これを読んで怒った人が 何人かいた。田原総一郎は、テレビ討論会で意見を述べた人が言っている内容が気にい らないだけで怒りだした。どうして感情と理性を区別できないのであろうか。僕はこういう連 中に疲れを隠せないでいる。論理を切り離して考えることができない人ばかりが目立つ。 いい加減疲れてしまう。

同様にして、男女のセックスについて語ると、僕の下品さが問われることがある。セックスなし に人間は存在しないのである。その認識を事実としてもつことをできる人だけがセックスを冷 静に語ることができるのだが、ここでも論理を混同する人たちは語り手の下品さだけを考える。

日本人はセックスと死が事実であることを知りながら、又自分達が親の快楽的なセックスの結 果であることを知りながら、セックスを下品なこととしている。セックスが食欲とならんだ人間の 欲の結果であることを認めながらもタブーとしている。僕にしてみれば、セックスを隠そうとする 気持ちはとても歪んだものにしかみえない。どうしてセックスを正直に語ることができないのだ ろうか。アメリカ人は女性でも男性の僕に向かってそれを認めた話し方をする。20代には一日 に何度もセックスがしたくなった時期があったと語った女性もいた。それを僕に語った女性は、 事実関係を述べていただけなのだ。僕はその発言をもって彼女が下品とは思っていない。

死についても同様だ。僕は死を語ることが多い。それは命の終焉として死があることを認め て、そこで初めて今ある命を大切にする気持ちが生まれると信じているからなのだが、賢者 たちは、死なんてことを考えないで今を一生懸命に生きるべきだと言って、僕の客観的な死 の分析と僕の生き方を混同している。

セックスと同様に、死も語ってはならないと思っている人ばかりがいる。科学万能の時代に反す る非科学的なものの見方考え方なのだが、保守的とか進歩的とかいった次元ではなく、基本的 には彼ら彼女らの思考の狭さを表しているのではないだろうか。僕は、観念的なものの見方を 嫌うので、具体的な捉え方をする。従って、死に関しては厭だとかそういうことではなく、人生の 終わりという具体性の中で語る。それでは死にたいのか?と問われれば、死にたくはないという 自分の心を伝える。セックスについてはオスとメス論を繰り返す。そしてセックスが好きか嫌いか と問われれば好きだと答える。それをもって下品とする人たちの持つ性への考えは歪んでいる。

おのざわショージ
08/19/01

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