ボスは迷文家シリーズ


Vol.33

引責辞任は問題の解決にならない
大蔵官僚の腐敗と三塚蔵相の辞任劇


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1月28日付読売新聞の朝刊には、"三塚蔵相は当初、「事件の責任は感じているが、信頼回復に全力を尽くすことが蔵相としての責務」として、補正予算成立と事件再発防止のための大蔵省改革に取り組む意向を表明、早期辞任には難色を示していた"と書かれてあった。この裏で如何なる政治的な判断があったかは知らないが、国民の利益を守る上でも、三塚蔵相が事件の責任をとって辞任するのではなく、寧ろその対策に全力を尽くすことが一番大切なことではないのか。辞任することは、誰にでも出来る。ところが、一番難しいことはトラブルの根元を絶つことである。そういった善後策の適任者は未経験の新任者ではなくトラブル発生時の責任者である筈だ。事ある毎に辞任というのでは、失敗が活かされることもないので長期的な仕事もできない。更には、政治家が政治にチャレンジする機会を取り上げてしまっている。国民の血税を使っているにも拘わらず、政治家の育成につながっていない。国益に反するのだ。

企業の現場でも、失敗はつきもので、失敗をする度に責任者の首をすげかえていたのでは、何も解決はしない。ここで大切なことは、失敗から学び二度と同じ失敗を繰り返さないシステムと経験を積み重ねることである。失敗の痛みを知っているのは担当者であり、その責任者である。今回の事件の場合、担当者は犯罪者であるので論外ではあるが、三塚蔵相は責任者として痛みが骨にしみていることであろう。だからこそ、今後二度と同様な事件を起こさない為の恒久対策に全力を尽くすことが出来るのである。それをせずして未経験の後任者と首だけを置き換えたのでは、気をいれた改革なんて出来るものでない。痛さを知った三塚蔵相だからこそ、腐敗した官僚組織にメスを入れるだけの凄みがもてるのだ。三塚蔵相が無能な政治家ならば別だが、辞めて"けじめ"をつけさせるのではなく、恒久対策に尽力させて、経験を積んだ政治家に伸びる為のチャンスを与えるべきではないのか。辞任はその結果を見てからでよい。その方が三塚蔵相自身、担当官庁の組織を把握することもできるし、積み重ね上げた経験を、為政に反映させることができるのだ。それは政治家の育成にもつながり、結果、国民の利益となることを意味している。

"危機打開へ蔵相辞任は当然だ"と題して同日の読売新聞には次の記事もあった。"東京地検が摘発した大蔵省金融検査部幹部の汚職事件の責任をとって、三塚蔵相が辞任する。本体にまで捜査のメスが入った大蔵省の抱える病根は深い。捜査が進むにつれ、大蔵官僚の信じがたい癒着の構造や不正が明るみに出ている。そうしたことを踏まえれば、金融・財政の最高責任者として、蔵相の辞任は当然だろう" これは、蔵相が為政者として無能であると判断した上で書かれたのであろうか。過去の自民党のイメージからすれば、政治家や官僚は皆おなじ穴のムジナ的な印象があるが、政治が官僚に手を焼く図式は日本古来のものだ。蔵相が官僚を把握しきっていなかった為に起こった事件であることは確か。では他の責任者であったならば起こらなかったのであろうか。そうではない。こういった問題は、前任者の時代にも水面下の腐敗物の様にメタンガスを発生させていたのだ。これは正しく最高責任者としての政治家の問題と言い切る前に、力を異常にまでつけすぎた官僚組織の問題であるとは言えないのか。従って、新聞はその辺の力関係や組織図をきちんと説明した上で辞任すべき、と書くべきではないのか。大衆が新聞の主観的な記事にいとも簡単に煽動されやすいという事実は、新聞の仕事に携わっておられる知識人の諸兄ならば充分承知のことと思う。そういった点を弁えた上で、辞任すべきと断定しているのであろうか。納得しかねない。

成功者たちの中には、仕事で失敗をして相手に迷惑を掛けた時、その災いを福に転じさせることが出来る人が多い。最初は気まずく顔も合わせづらいが、埋め合わせの為の努力は認めてもらうことができる。努力をすればするほど、相手に好印象を与えることができるのだ。それは、失敗前の印象よりも良い場合が多い。心理的にみても、失敗後の対策が効果的になることが多いのだ。三塚蔵相を辞任に追いやることは、そういった好結果を生み出す為のチャンスをみすみす無駄にしていることでもある。こんな経験をしたからこそ、行革の大鉈を振り落とすこともできるのではないのだろうか。それを政府与野党は、パワー・プレーのストラテジーの材料として使い棄てようとしているだけ。パワー・プレーとは、国民の利益を代表するものではなく、与野党の政治的エゴを代表するものでしかない。 オピニオン・リーダーである新聞までが、辞任すべきだ、と恰好な論調を張れば、大衆は深い考えを持つこともなく、ただ単に煽動されるのみ。政治家と知識人がヒステリックになっているのだが、大衆は、煽動されながらもけっこう醒めていることであろう。

官僚腐敗の責任をとって大臣が引責辞任。これに似たことはどこの国にでもおこることではあろうが、成り金先進国だからか、日本ではあまりにも安易に腐敗がおこりやすく、引責辞任が繰り返されている。教師が不祥事を起こして校長が責任をとって辞任することをも含む。日本の国民感情を前にして、辞任が"けじめ"であるという国家的(ヤクザっぽいが)コンセンサスがあるので、野党もそれを追及するのであろう。辞任がポリティカル・ゲームの手段となり、"けじめ"="辞任"というシステムが成立しているのだ。事ある毎に辞任というのでは、失敗が活かされることもなく、長期的な仕事もできず無駄も多いので、国益に反するのではないだろうか。政治家たちも、やたら内閣や党を解散したりで、政治的なパワー・プレイに走るだけ。これでは、長い目で見ても為政の経験を積む場すらない。こういった事実ひとつだけをとってみても、現在の政治家たちには国民の利益を代表する資格すらないことがわかる。野党やメディアもただ批判をするのではなく、何をしたら国益につながり、恒久的に問題を解決することが出来るのかを考えるべきである。

1/27/98

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