ボスは迷文家シリーズ |
差別と偏見‐社会学的考察
僕は米国(シアトル)に住んで差別と偏見を感じたことがありません。シアトルは民族的な差異に寛容な土地です。でも差別や偏見を感じる日本人は、米国に住む長期滞在者や訪問者を含めて数多くいます。その問題点をここに提起することによって、そういった人たちが差別や偏見を回避出来たらなによりです。
差別
先ず我々が理解しなくてはならないことは、"異質"に対して差別が起きるということです。これは人種間の異質のみならず、同族における性別、年齢別、職場での派閥、学校でのえこ贔屓、好き嫌い(容姿顔形、思考の不一致、性格の不一致、ファッション、等々)。 我々の日常で頻繁に見られることです。こういった差別は、法律や取り決めそして約束事によって差別を排除しきれない面をもっております。異質があれば差別もありうる、と思って良いと思います。この事実をしっかりと頭に入れて読んでください。
アメリカ人の多くは質素で謙虚で真面目です。そんな質素な人たちがいくら寛容であったとしても、日本人に対しての違和感がつのれ(異様なまでに)ば、日本人に対する生理的精神的な拒否反応が、嫌悪感にともなって言葉や表情そして仕草にまでも出ます。そしてそれが偏見や排他に育ってゆくのです。差別は(実際にあるとすれば)法律では禁じられているので、見えないところで行われると思います。それを感じ取って、差別をされたと思うのでしょう。人は、許容することのできない異質性に触れた時、落ち着きが無くなり(feel uncomfortable)それを不安(feel threatened)に思い、受け入れ(accept)ることが出来なくなって、それが嵩じると精神的そして生理的な拒絶(reject)となるものです。日本人が感じる差別や偏見(discrimination & prejudice)は、こういった理由に起因していることが多いようです。"あそこのレストランのウエイトレスはけしからん、俺を日本人だと思って、、、。"僕はこんな言葉を何度聞いたことでしょうか。大学の教育を受けている人たちから出る言葉です。
米国では六十年代に黒人差別問題が膨れ上がり、人種差別を連邦法で取り締まりました。参考の為に書き添えますが、今日の日本では今だ差別が取り締まられておりません。"うちは外人には貸さないことにしているんです、、、"こんな大家(アパートの)さんは今日の日本には、まだまだおります。"外人お断り"の張り紙にしてもつい最近も目にしています。在日韓国人や中国出身者が今までに受けた差別や偏見そして辱めは、想像に絶するものがあったことと思います。アイヌ民族や部落人などにいたっては尚更のことです。彼らの悲痛の怒りの声は、平和に暮らしている人々の耳には届かずに、届いても多くの日本人にとっては他人事、無関心を示すだけです。僕は1970年以来アメリカと深く関わっておりますが、僕が日本人であることを理由にアパートへの入居を断られたことはありません。仮にそんなことが起きたら、その場にいるアメリカ人が僕の為に差別を抗議することが目に見えております。
差別や偏見はマジョリティー(多数派)からマイノリティー(少数派)に対するものと一般的に信じられてはいますが、それは必ずしも正しくはありません。権力者から被権力者への差別、これが基本です。すべては力のバランスに基づくのです。アメリカの人種問題を見る限り、多数派から少数派への差別といった図式が成立しますが、南アフリカの場合は、少数派による多数派への差別でした。
日本の歴史の中で(現在にも至って)、和人によるアイヌへの差別という多数派から少数派への圧迫や差別があったものの、徳川政権(少数派)の階級制度そのものが武士以下の階級差別そのものであったのです。これは少数による多数への差別でした。"あわれな"被差別者の側にも差別が存在します。日本の部落問題にあった(今もある?)様に、百姓とも人間とも認められない階級すら存在した(する)のです。彼等は大きなヒエラルキーの底辺に位置づけられて息をしているだけで、大多数の国民はその存在すら知りません。中世のヨーロッパでも然り、世界中どこでも同じです。平等を追求した共産主義はユートピアに挫折して、象牙の塔を建てて権力者だけが経済的な繁栄を手に入れました。ブルジョアジーを否定した中国の文化大革命は、中国三千年の歴史に渡る文化的遺産すらをも破壊した挙げ句、毛沢東一味は人民服の影に隠れて搾取側の生活を満喫していたのです。
差別は我々の日常の中にはいたるところにあります。差別とは、異質者同士の間から発生します。それは同人種の間にでも発生。出身地、家格、学歴、経歴、男女、役職、年収、趣味それは色々です。法の下で差別が認められていないだけなのです。親は、大学出身の娘が高卒だけのボーイフレンドとの結婚はおろか、交際にも反対(差別)します(その逆は問題となることが少ない)。"あの人は良い人とは思うけど、パーティーにはトップの人を多く招待しているから今回は遠慮を、、、"これらも差別ですが、実際には排他主義として別の社会的な要素をもっております。
人間同士の"違い"に違和感があると、そこには必ず排他主義が頭を持ち上げます。然し排他主義は、差別との境界線が曖昧なので日常生活においては問題とはなりえることがありません。排他主義はある一点で競争の原理と相互作用します。そしてその相互作用は、社会の発展や個人の動機に対して大きなエネルギーとなります。ですから排他主義は、感情的な差別感の原因とはなりますが、それを差別として法で規制することは反社会的な行為ともなりえます。
排他主義は差別ではあるものの、優性の法則を守る上でも、進化(資質成長への)動機づけを助長(進化の後押し)する上でも大切なことです。排他主義があるからこそ、排他されない為の動機(成長や進歩発展への欲)がおきるのです。そして競争がうまれます。競争は社会及びその構成員である各個人にとって、"あいつに負けてなるものか"という気持ちをおこさせます。負けん気になって学習に励めば、その過程で知識を得るのみならず、努力の結果で、研究者ならば新発明や新発見をするのです。ビジネスでもメーカー間の競争がある為に、より良い商品をより安く買い求めることができるのです。競争がなくなると、独占となり、人も企業も努力を怠る様になります。努力を怠れば新知識を得るチャンスが大きく減少し、追求する結果も余り期待できません。人の為にも社会の為にも良くないことです。従って動機づけを産む排他主義は、諸刃の刃の二面性を持った必要悪、ある部分では欠かせないものだということが出来ます。資質を伸ばす上でもより良い結果を求める上でも欠すことができないのですから。
偏見
差別と似たものに偏見があります。一般的に差別は力関係を示すことがしばしばですが、偏見は意識や寛容の差を示します。意識が高ければ高いほど人種的異質性に対して寛容ですが、意識が低ければ低いほど排他的になることがあります。これは教育の程度に比例し、人夫々の性格の質によっても異なると思っております。
具体的な説明をします。ここでは今でも排他的であるとの仮定での例です。成城の閑静な住宅街には裕福な家庭が多く、道路脇に駐車される車も高級車ばかりです(実際には高級車は車庫)。住人も会社の役員とか経営者ばかり。もちろん身につけている衣服も高級感が溢れるものばかりです。こういった環境の中に見るからに無教養なフィリッピンからの低所得の家族が引っ越しをして来たとしましょう。駐車する車はボロボロのポンコツ車。大家族で子供も下は三歳から上は十六まで。周辺住民の殆どの反応はきっとこうです。"いやだわ、あんな人たちが引っ越してきた"、"うちの子には遊ばせないほうがいいわ。" これが偏見です。
教養があって排他的な人たちは、新しい住人に挨拶をします。でもそれは慇懃無礼なだけで、心がこもっておりません。排他的で無教養な人たちの反応は、あからさまに敵意を示すこと。教養があって寛容な人たちは、一通り心のこもった応対をします。付き合いが始まるかどうかは、その後の人間関係によります。そして教養はないけど寛容で心の優しい人たちは、すぐにでも近所づきあいを始めます。
偏見が異質に起因することは既に述べました。同類であればあるほど偏見が少なく、異質があればあるほど偏見の度合いが増すのです。アメリカのアッパー・ミドルクラスの住宅地には白人ばかりが住んでいます。そこへベンツを乗回す黒人の弁護士のファミリーが引っ越ししてきたとします。黒人家族は品の良い服装。話しをしていても教養が感じ取られます。排他的だけど教養のある周辺の白人たちは、この黒人家族を受け入れます。然しこの家族を訪問してくる親類や友人に周辺の白人への違和感が強いと、住人の間に不安感が生まれ、偏見が育ち、酷い時には目に見えない嫌がらせが始まることもあります。
この白人の住宅地に、ポンコツのピックアップを乗り回す無教養でマナーの欠けた白人家族が引っ越して来たとしましょう。教養が高く寛容な白人は挨拶をしますが、すぐには友人にはなりません。教養が高く無寛容な白人は慇懃無礼にふるまうだけ。教養が低く寛容な白人は、教養があって寛容な白人よりも早くうちとけます。教養が低く無寛容な白人は、あからさまに嫌悪感を示すことがあります。白人社会の中であっても社会階級的な異質性が排他主義を呼ぶのです。後で述べますが、排他主義は偏見によって行為化します。それが結果として差別となるか否かは解釈によって微妙なところです。
嫌悪感が募ると嫌がらせに転じることがあると書きましたが、つい二〜三年前のシアトル郊外(白人の住宅地)でも、刑務所を出所したばかりの元連続強姦犯(白人)の家が焼き討ちになった事件がありました。これは異質に対する不安感が恐怖感に変わって起きたものです。たまたま被害にあった家は白人のものだったのですが、元犯人が黒人であっても起きたであろう事件です。その場合は黒人へのヘイト・クライム(他人種を憎んでの犯罪)として人種問題に発展します。
ヘイト・クライムは五〜六年前にロスアンゼルスで発生しました、環境の良い住宅地に住む日本人が家の中で殺された事件がそれです。日本人による目立ち過ぎるばかりのアメリカ買い占めが盛んであった頃に起きました。確か数年前に起きたデンバー帝京高校の生徒が殺された事件。これはヘイト・クライムと記憶しております。ステレオ・タイプはまずいのですが、高校生たちがアメリカ人の街でどういう振る舞いをしているものか、シアトルへ来る若者たち(語学留学生‐特に夏休みを利用してやって来る短期の語学留学生のグループ)を観察しているとある程度の推察はつきます。これも日本人の脅威(大手を振って異質を顕示している)への不安感が、日本人への生理的嫌悪感へと転じて起こした事件といえないでしょうか。経緯を知らずに書きました、ですから断定ではなく憶測です。
村上春樹氏の"やがて悲しき外国語"という本に、ホノルル・マラソンの二万人からなる参加者の内、過半数(一万二千人)が日本から飛行機でやって来て参加する日本人、地元のアメリカ人たちは日本人に対して拒絶反応を示し始めたと、書いてありました。こういった拒否反応は人間の感情の問題なので、法律によって"そんな感情を持つな"とは出来ないものです。ローマに入ったらローマに従う(ブレンド・インする)ことが大切で、他人の国へ行ってあからさまに日本人であることの異質性を顕示しないことは、ある意味では演出として大切だと思います。 それは、相手に良い印象を与えようとして着飾る(演出)ことにも通じております。 ですから、ホノルルで良い印象を与えるということは、高価なランニング・ギアに身を包むというのではなく、この場合での演出とは"目立たない様に"そう"地元の人たちの癇に障らない様にすることです。要は、相手に如何なる印象を与えているのか(相手の立場にたつ)考えることです。東京の街中でグループ化したイラン人に対して、日本人は拒否反応を示したことを思い出してください。二万人参加のマラソンに一万二千人もの日本人が押し寄せれば、どうしても目立ってしまいます。
良い例ではありませんが、ナチス・ドイツの時代、弾圧を受けていたユダヤ人は、ひっそりと目立たない様に暮らしておりました。でも僕は日本人にひっそりと暮らすべきだとは言うつもりはありません。日本人グループの中にいた方が楽だという人達が、異質感(違和感)を大きく顕示することが多いので、それに対してアメリカ人が如何なる反応を示すものか説明するだけです。然し日本人は、他人の台所(アメリカ)を荒らさない(違和感を出しすぎない)くらいの礼節くらいは持つべきと思います。英語ができないからアメリカ人と一緒だと落ち着かない、だから日本人同士。気持ちは良く理解できます。決して悪いことではありません。でも日本人のグループに固まれば固まるほど、アメリカの絵の中で異質に映ります。その結果で厭な思いをすることがあるだけなのです。極端な場合には、ヘイト・クライムの原因をつくってしまいます。
シアトルのダウンタウンの安酒場に、僕は頻繁に一人でブルーズの生演奏を聴きに出かけます。訪問者も連れて行きますが、殆どは僕のアメリカ人の友人たちです。でも時たま日本からの訪問客も連れて行きます。人数が二人以上の時には絶対に連れて行きません。例外はありますが、基本的に連れて行きません。日本人として目立つことが場違いに感じられるからです。でも僕の目から見て、雰囲気があうと思われる日本人グループは別です。彼等はアメリカの街に不自然でなく、どこへ行ってもすぐにブレンド・インする(日本人であることを顕示しない)ので、異質を露呈しません。でもこの"不自然でない雰囲気"は、米国生活の長短とは余り関係がないようです。その人から漂ってくる感性の質がアメリカの雰囲気に合うあわない、ということだと思います。
グループを組んでいる日本人たちは、何処へ行っても日本人であることを無意識のうちに顕示しています。善し悪しの問題ではありません。観光客は仕方がないのですが、アメリカに住んでいるのだったら、考えた方が良いと思います。日本でも、一人だけの白人よりも、グループでいる白人(多くの場合は観光客)には異質性が強く感じられる筈です。
日本から来た若い人に多いのですが、街中でしゃがみ込んで煙草を吸ったりソーダ類を飲んだり。これは日本人の大人たちの目にも異様で"やめろ"と怒鳴りたくなりますね。"日本人丸出しで何悪い"と主張する態度も同様に異様なことなのです。まあ、そんな反応をする人たちに限って"アメリカ人だって日本では、、、"と反論することは火を見るよりも明らかなのですが、そういった論理を展開したければそれも善し、僕がとやかく言うことではありません。ここで僕は、偏見における因果関係の説明をしているだけで、日本人であることの批判をするものではありません。偏見を避けたかったら、少しは控えめにしたらどうでしょうかとの提案なのです。日本人丸出しで何悪いと主張したい人はそれなりにすれば良い、但し偏見や拒否反応を感じたとの被害意識をもって、アメリカ人に対して敵意、反感、遺恨をもたないことです。
この様に、差別とは様々な形で存在しております。異質があれば差別もありうるそして偏見も育つ。そう思って良いと思います。人種間の場合は、異質性が際立って顕著に分かるので、どうしても目立ってしまいます。この事実をしっかりと頭に入れた上で、アメリカで快適に過ごせる様にしたほうが、日本人丸出しをしてホスト国の人々に不快感を与えて更に厭な思いをするよりも良いのではないでしょうか。
January 31, 1998
補足:
1998年2月23日付のサンノゼ・マーキュリー・ニューズ紙で次の記事を見つけた。
<画像>アジア系学生増えUCで緊張
Hostility, racism surface
アジア系の学生が、カリフォルニア大学の37パーセントを占め、1980年の構成の2倍以上になった。このアンバランスに対して反発も強まり、サンディエゴ校からバークレー校までの各校で、感情的な事件が相次いでいる。