ボスは迷文家シリーズ


Vol.38

若者よ、辞書を棄て街に出よ


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留学時代の経験が、今の僕の生き方につながっている。英語がメインの生活になってから通算三十年近くになっているにも拘わらず(日本語が遠ざかっているにも拘わらず)、日本語の文章を書くことにかけては、下手糞ですが躊躇はない。でも日本語の勉強をした記憶も英語の勉強をした記憶もない。高校時代も捻くれて屈折していたので、受験勉強は全くやらなかった。ではどうして"言葉"の仕事ができる様になったのだろうか。

言葉が僕の仕事のベースになったのには大きな理由がある。それは留学時に、論理学と論争学を勉強したからだ。論理学こそが僕の言葉を支えている。論理学を勉強すると、頭の中で理解している話題を、(英語の聞き手には英語で、日本語の聞き手には日本語で)、論理的に伝えることができる様になる。それこそが同時通訳の基本である。そこには通訳という作業が入っていない。瞬時に理解した話題(たまたま英語)を、瞬時に別の回路(たまたま日本語)で出力。理解された話題が論理という工程で言葉化するだけなのだ。

僕が日本で学生であった1960年代、論理学と論争学は日本の教育では力を入れていない教科であった。論争を避けて中庸に善を求める思想が人々の心に定着していたからであろう。でもアメリカでは、論理学と論争学は進んでおり、大学でのエッセイでも論理的に文章を進めないと、教授もきちんと読んでくれない。きちんと表現ができないと、理解もしくは能力がないとも見なされるのだ。日本では、"男のくせによく喋る"とか"もの言えば唇さむし"と言う様に、表現をすること自体を否定する社会通念があるが、アメリカでは表現がきちんと出来ないと、発言者の精神は未熟で理解度も貧困と思われてしまう。

これは論理学の育たなかった日本での歴史的な必然であったのかもしれない。無口であることの美を正当化する過程で、武士は口数が少なく、そして思索者はもの静かといったイメージを創りあげたからだ。静かであることは無知を意味しない、という逃げ場を造ったのだ。確かにそうでもある。然し、静かであることと、きちんとした論旨のもとに発言できるかは別問題ではないだろうか。会議で発言がない/出来ないということは、問題意識を持っていない場合が多い。きちんと順序立てて(論理をもって)発言できる能力は、発言者の頭の中が整理されていることを意味し、そこには"理解"がある。だから、きちんと頭の中を整理して論理的に表現が出来ない人は、思考整理的に未熟か、問題意識のない人である場合が多いのだ。また文章はきちんと書けるが、シャイで人前では話しができないという人もいるが、そういう人たちも含めて発言できない人は、社会機能が難しいと評価される。でも悪いことではない。そう人たちは別の生き方に自分の場所を見つければ良いのだ。さもなければ、きちんと発言できるように論理を身につければよい。

一般的に日本人は話下手である。マクロ(抽象論)とミクロ(具体論)を分けて討論しないので、いつも論点が見えなくなってしまうことが多い。そして、理性と感情を分けることもしないので、論理の展開も出鱈目になっていって、論理の飛躍(論理がないから)も多い。

更に悪いことには、必ずといって良いほど、話の腰を折って、又は話の中の論点とは無縁な言葉をとって、話題を変えてしまう人が必ずいる。そしてそれが許される。例えば,インターネットの普及についての話し合いの中で、"インターネットはファックスにとって変わる"と発言者が言うと、聞き手は、"ファックス"という言葉をとって話しを脱線させる。"そういえば、ファックスの機械は安くなったね"。ここまでは良い。すぐにインターネットに戻れば。でも別の聞き手が、"先日雑貨屋でも安売りしてた、、"と話を合わせてくる。そしてこれが延々と続き、酷い時にはファックスの会話に出てきた雑貨屋の言葉をとって、"そういえば最近は雑貨屋も何でも売る様になったね"。 この様にして脱線は限りなく続く。次の言葉をとって更に脱線していくのだ。その時には、インターネットの普及については誰の頭にもなくなっている。ファックスに関しては、別のテーマを持って話し合いを行えば良い。ところが、多くの人にはこの区別ができない。これでは話題が跳ぶだけで、効果的な話し合いができないのだ。これは問題意識の低さにも原因するが、僕は脱線せずに、この話題をべつの機会に触れることにする。

日本では通訳としての最高の地位にあるのが同時通訳。帰国子女(論理を身につけている限り)ならば簡単にできる仕事だ。英検の勉強をしておられる方にアドバイス。直訳試験に向かって勉強をやったって、英語の力なんて身につきませんよ! 受験勉強の為の知識の記憶と何ら変わらないのだ。直訳ばかりしていたのでは、文章の行間が読めるようにはならない。この行間を読むことこそが、生きた言葉を理解することではないだろうか。意志伝達の手段として使っている言葉が、たまたま英語であり、日本語である。そう理解することが英語上達の第一歩といえる。言葉とは意志伝達の手段でしかない。それを肝に命じることだ。

更に必要なことは問題意識を高く持って、常に社会の情勢に関心を払うこと。英語や日本語の新聞、テレビ、ラジオを使って訓練するのだ(結果的にそれが学習(訓練)であったという意味での訓練)。英語の場合いちいち訳をしないで、理解が浅いままでも良いから読み進める。ひとつの事件のエピソードを、進展に従って毎日読み進めていると、記事内容(話題)だけを理解する様になる。英字新聞を読んで同時に日本語新聞でも読み進めていれば尚さらだ。但し英文記事を読みながら訳をしてはならない。直訳の癖がついてしまう。こういった訓練を続けていると、一つのエピソードを自分の一つの頭で理解するようになる。一つの頭で一つの理解することが大切なのだ。これが出来ると、その理解に基づいて、英語でも日本語でもその何れでも話題を語る(アウトプット)ことが出来る様になる。

日本で大学に通っていた頃、きわめて日和見主義的(小市民的)ではあったものの、僕は社会問題に対しては強い意識を持っていた。留学時代も現在も米国内外の社会問題に関しては、社会学的な意識を高くもっていた。新聞やテレビのニュース(英語)にも、興味深く神経を傾けるので、こうした過程では、生きた"言葉(英語でも日本語でも)"が自然に身についた。

僕は大学時代には、英語とか国語の勉強なんて興味すらなかった。大学では社会学を選んだが、それは高校三年生の時に来日したジャン・ポール・サルトル(哲学者)の講演会を聴きに、日仏会館へ出かけたことがきっかけであった。僕は、フランスで反ベトナム運動のリーダーの一人であったサルトルによって社会意識を目覚めされられた。高校時代の屈折した気持ちを爆発させる上で反戦運動は都合がよくて、社会学的な知識武装の他には勉強なんてそっちのけだったのだ。喧嘩に強くなるのにボクシングをやる、そんな感じで社会意識のみが高まっていった。就職なんて誰の脳裏もかすめなかった時代だったことも影響したかもしれない。ちょうど中国では文化大革命の真っ最中。怒りと破壊心だけが若者たちを駆り立てていた。当時はそれが世界的な傾向だったのだ。

アメリカの大学では、クリエイティブ・ライティングのクラスを受講して、エッセイや短編小説を英語で書きまくった。然しこれは英語を教えるクラスではなく、創作文を書くクラス。だから英語を母国語としないだけでなく英語を不勉強していた僕にとっては大変ではあったが、これはプラスになった。そこで僕はカミユやカフカの真似た短編(全然なっていない)を書き続けたのだが、そのクラスは偶々国文(英語)であったにすぎなかったのだ。何が言いたいかというと、訳が求められない創作や社会学の学習が、僕にとっての生きた言葉としての英語学習となったということだ。短編小説そして社会学の勉強が、英語(手段)で行われたというだけで、そこには英語の為の英語はなく、話題や知識を得る上での言葉が英語というフォルムであったということだけであった。

生きた英語の学習は、英和や和英辞書を棄てた時にはじまる。これらの辞書に頼る限り、直訳の癖がとれない。直訳による通訳はスピードも遅く、今の時代ではビジネスでも求められないと思う。直訳の翻訳は読みづらく、文章としても失格。英語学習者の方々は、ウエブスターの辞書を使ってみたら如何だろうか。最初は理解できなくとも、理解した意味は"生きた"言葉として身につく筈だ。直訳試験は、生きた英語学習に対して害でしかない。英語は英語で、そして日本語は日本語で問題意識を高め、社会・政治・経済情勢に注意をしていると、語彙(日本語も含めて)も増える。英語でインプットする話の内容を、頭脳に消化された知識のタンクから日本語でアウトプットするという形で、訳という作業を通さずに行うのだ。それが同時通訳である。

性格にもよるが、僕には通訳を本職とすることを勧めることが出来ない。通訳はあくまでも第三者なのだ。黒子に徹しなければならない役。当事者(第一者と第二者)同士の意志疎通が可能ならば要らない仕事。討議内容に自己主張の出来ない仕事でもある。僕向きの仕事ではないことは、僕を知っている人ならば分かってもらえるだろう。なにしろ僕くらい自己主張の強い人間はいないのだから。仮に僕が煙草メーカーの通訳なんかやったら大変だ。売り手が健康的な煙草と言っているだけなのに、僕は、"やはり煙草は不健康です"、なんて余計なことを付け加えてしまうだろう。通訳とは、自分(性格)を出してはならない、即、性格的な参加をしてはならない淋しい仕事。だから勧めることができない。

英語から日本語の同時通訳は出来ても、日本語から英語はほぼ無理。アメリカ人は論理立てて話をしてくれるので問題はないのだが、日本人でそれが出来る人は非常に少なく、特に営業系で論理を組み建てることができる人は皆無に近い。技術系の優れた部長クラスにもなると論理がたつ。中には営業部長クラスで話しの説明が上手な人とも出会うことがある。話の説明が上手であるということは、論理的であるともいえるのだ。やはりそういった説明の上手な人たちには、エリート中のエリート(真の意味で論理的)という雰囲気が漂っている。口下手の人はサラリーマン社会でも大損をしている筈だ。自分自身をきちんと表現できないのだから、無能力者との印象を与えてしまう。会社によっては、それだけでオフィス・サープラスとなって悲しい人生を送ることになるだろう。この様な人は特に論理学を学ぶべきと思う。

僕は、従業員を八人かかえてはいるものの、本業のマウンテンバイクの仕事からは、給料をとっていない。会社の成長とともに、次へ向けての先行投資に出費がかさむので、追いかけっこなのだ。副業(言葉の仕事)はその為にはじめたものであった。最近は減りったのだが、米国で開かれる自転車の国際見本市において、スピーチやパネル・ディスカッションにかり出されることもある。こういった今の僕があるのは、社会意識を強く持っていた日本の大学時代があったというものの、社会に出て実践できる知識と技術の基礎を、アメリカで作り上げたからだ。現在英語の勉強をしている方々は、自分の専門の仕事や興味を英語で実現することを目指すべきだ。英語を実践に応用するのだ。これが生きた英語を身につける上での一番の近道といえる。言葉とは応用である。応用のない言葉は死んでいる。だから英語を学んでいる学生は、興味や趣味を英語で親しむ環境を作り上げればよい。学生も例外ではない。

論理的な思考なしの通訳は、油がさされていない歯車の様なもの。英語による話題の理解という歯車を、日本語という歯車をかみ合わせただけでは、きちんと歯車同士が噛み合うことはない。そこに潤滑油(論理)をさすことによって、回転がはじまり、話題が日本語という形で産み出されてくる。日本の英語学習に大きな遅れがあるのは、日本人の思考回路に論理が不在であるからで、英語の教師たちもそこに気がついていない。日本語の文章が下手な人は英語の文章も下手。きちんとした日常会話が出来ない人は、英会話もきちんとできない。自分で思い当たるふしがあるならば、母国語をきちんと勉強した上で英語の勉強をすることだ。

2/10/98

補足:
1998年2/23付の毎日と読売に関連内容のコラムがありました。

毎日新聞 「自分の言葉で話せない」 by コラムニスト小林洋子
日本という国のコミュニケーション能力のなさ、、特に政治家と役人。例えば、国際会議の場での日本の評価は極めて低い。彼等がろくな発言をしないからである。つまり、予め用意しておいた原稿を棒読みするだけなので、臨機応変のスピーチができない。役人が用意した原稿の内容意外の発言ができないので、当然議論は噛み合わない。日本は議論の輪から外されることになる。かくして、国民の血税から絞り出された各種の国際援助も「死に金」となる。自分の意見を言えないのは、語学力の問題というより、議論の流れに乗って自分の考えを効果的に発言出来る能力がないからだ。

米国では「コミュニケーション学」は独立した研究分野となっている、、、。普通の人々にとっても、いかに自分の意見を人前で効果的に述べるかは、重要なスキルであり、子供の頃から鍛えられる、日本ではコミュニケーションを教えない、だから自分を表現できない子供たちは短絡行動にでる、、、、、。

読売新聞 編集手帳
政策や方針を理解してもらおうというのなら、味気ない官僚の作文ではなく、首相自身の生の声を、、、、
とかく「原稿の棒読みが目立つ」と言われる首相の国会演説や答弁も同じだ、、、(2月23日22:15)

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