ボスは迷文家シリーズ |
日本における民主主義は敗戦によってもたらせました。これを戦後民主主義と呼びま す。この戦後民主主義は、大正デモクラシーが2.26事件によっていとも簡単に消 滅し、日本が敗戦した後にもたされたものでした。敗戦の焼け野原から立ち上がろう としている国民の顔には、日本の歴史上かってなかった"自由"の風が心地よく感じら れたものと思います。その時の彼等の理解に、自由と"秩序"が相互関係にあるという 認識があったのでしょうか。僕には分かりません。自由を成立させる為には、秩序と いう約束事(社会契約)が前提となることへの認識がなかった又は浅かった、僕には そう思えてなりません。我々が社会生活を営んでいること自体が秩序を前提としてい るものです。マッカーサーの統率の下に成立した基本的人権によって、日本国民は自 由を謳歌するようになったものの、"自由と秩序"の相関関係への認識や教育が徹底さ れなかったのではないか。だから知識人階級に属する人たちまでが、自由という言葉 を抽象論の中のみで語り、現実の問題(無秩序)を正当化しようとしている様に思え てならない。現在の日本がかかえているこの悲劇は、自由の意味をはき違えた日本の 知識階級によって増長されているのではなかろうか。
僕の母は日本が戦争に負けて良かった、と小学生の頃の僕に語っておりました。 B-29の爆撃で恐い思いをした日本人の母がそう言ったのです。彼女は日本の兵隊がと っても恐かったというのです。朝鮮動乱の頃、再婚先の家での苦労に耐えた母ですが 、生活の苦しさなどは戦争の比ではなかったという安堵する気持ちや希望があったの でしょう。母の心は軍国日本からの解放感で膨れ上がっていたのだと思います。そし てこれは僕の母ひとりだけのものであったとは思えません。こうのような気持ちの人 々が日本国中にいて、彼等彼女等によって、戦後の日本の復興は支えられたのではな いでしょうか。
民主主義への解放感は、自由という言葉に置き換えられて日本人の心の底に定着しま した。自由の国アメリカから与えられた自由です。アメリカ人にとっての自由とは独 立戦争以来、自分たちの力で"勝ち取った"自由だった。これに対して日本人にとって の自由とは、軍国主義の後に"与えられた"自由でした。ですからアメリカ人の心の内 に生きる自由と、日本人のそれとの間には大きな隔たりがあります。戦後五十年、日 本人は"自由"に生きてきました。それと同時に、現代の社会問題をみていて分かる様 に、無秩序も"自由"に育ったのではないでしょうか。 日本とアメリカ社会に精通し ている多くの有識者たちの間にも同じ憂いがあるものと信じます。
自由を語ることは、余りにも抽象的すぎるので、ここでは表現の自由に絞ります。ア メリカはアウトローが多かった国。アウトロー、即、法(ロー)の外(アウト)の無 法者が多かったのです。これに対しインロー(法の中)、即ち、法を遵守するという 言葉があります。インローには婚姻関係によってつながった身内という意味もありま すが、ここでは法を遵守する関係という意味です。周知のことですが、米国社会は、 異なった歴史や文化そして伝統を背負った多国籍のエスニック・グループ(民族)に よって成り立っております。民族間では判断や価値の基準すら異なります。それを放 っておいたら社会に収集がつきません。そこで出来上がったのが現在のアメリカの法 律です。イギリス法やドイツ法とかの様に、世界の立法の基準となる法律があります が、余所の国の法律をそのまま当てはめることが出来ない特殊な歴史的民族的な理由 を背景に、アメリカの法律が制定されました。
私たちはお互いのこと(道徳や価値基準)が分かりません。法律をつくって、それを 破らない(インローでいる関係成立)ことにしましょう。約束(法律)を破ったら( アウトローになったら)罰しますよ。約束事を守る限り(規制された秩序を守る限り )、何をやってもかまいません(自由)。こうして多種の民族はアメリカという一つ の共同体(国)で社会契約を結んだのです。この様にして、アメリカの法律(自由の 尊重)が、社会契約(秩序を守る)という精神の上になりたっているのです。
アメリカ人の中には皮肉を込めて(保険制度での遅れをとって)、アメリカには死ぬ 自由があると言う人がいます。これは保険に加入するお金のない人はどうぞ死んでく ださい、国は面倒を見ませんという皮肉なのですが、米国の法律は、活動の自由、宗 教思想の自由、そして表現の自由を日本以上に保証しております。然しいくら活動の 自由といっても殺傷は許されません。それを規制してはじめて秩序ある自由が保証さ れるのです。それが法の具体性なのです。ですから活動の自由があるんだから俺はお 前を殺すぞ、という事は許されません。法は人の為に創られたもので、それが反社会 的に乱用されてはならないのです。ですから表現の自由を取り締まることが基本的人 権に反するという知識人(エセ知識人がその実態)がいたら、それは嘘です。その人 間が自由の意味を理解せずに、観念の世界(抽象の世界)であそんでいる(具体性に 欠ける)のにすぎないのです。そんな人たちをエセ知識人と呼びます。数多くいます 。常に事象を客観的に観察し、抽象論に巻き込まれないことです。
米国の立法時の精神が凄いのは、武器の所持を認めたことにあります。独裁なり一民 族によって国民の利益に相反する方向に国が動かされた時には、政府を倒す(革命) 為に武器をもって立ち上がることを認めた上での、武器所持の自由なのです。ところ が、最近は余りにも反社会的な武器の乱用が多い為に、この法律には規制が加えられ ております。
アメリカ人における自由の精神には、お互いを干渉しない自由があります。束縛しあ わない自由といっても良いでしょう。でもそれも社会契約(憲法で認められる自由以 前の約束)をきちんと守った上で成り立つ自由であって、秩序ある自由なのです。で すから敬虔なクリスチャンが大多数を占めるこの国の倫理観は、基本的人権のもとに エログロ猟奇暴力の表現の自由を認め乍らも、日常生活の場(住宅地や近くのショッ ピング・モール)商店街においてはそれを厳しく規制しております。テレビは日常の 生活の場ですから、裸やセックス・シーンもなく、酒類(ビールを含む)やタバコの コマーシャルすら認められない州(地方自治体が確立されている)が大多数です。一 般書店でも裸やセックスの本は置かれません。規制云々以前に書店独自の見識によっ て置かない場合が殆ど。販売されていてもプレイボーイやペントハウスくらいで、そ れでも表紙には、帯そして更にビニールで包装し表紙写真が見えないようにした上、 客の入れないカウンターの奥に雑誌名だけを展示して販売しているのです。僕はアメ リカには秩序ある自由が生きていると思います。
日本からの旅行客はアメリカのポルノ雑誌やビデオを購入して帰りますが、その類の 商品取り扱う店は、旅行者の行き交う街でそれもごく限られた場所にしか出店許可す らでないのです。旅行者たちは、そういった部分だけを見て、彼等の胸のうちにアメ リカの印象を刻み込んで帰ります。ですから大方の日本人は、アメリカではポルノで も何でも自由で、アメリカ人は拳銃を所持し、、、といったステレオ・タイプ(型に 嵌めて)をしております。これはニュース性の強い部分だけがテレビや新聞雑誌を通 じて伝えられるからだと思います。今ではもう聞くことはありませんが、アメリカ人 にとっての日本は"フジヤマと芸者"といった日本観と同じことです。
日本の出版社は教育出版物を取り扱いながらも、無節操にエログロ猟奇や暴力書物ま での広範囲を発行しております。出版社の持つ哲学そして倫理観が、普遍的なものを 追求しているからなのか、それとも哲学や倫理観は商売の邪魔だからと開き直ってい るのかどちらかです。左手で反社会的な殺戮暴力セックスそして猟奇殺人への好奇心 を与えるがごとくのパンチを浴びせ乍ら、右手では倫理観を教え、道徳を説き夢を与 え乍ら、模範市民として握手をしているのです。世界に名を馳せたエコノミック・ア ニマル日本健在なり!ということなのでしょうか。
ポルノやセックスが悪いとは思いません。だからと言って街中に氾濫させて(無秩序 )良いものだとも思えません。然し、ポルノでも反社会的な強姦や痴漢には規制をか けるべきで、暴力や殺人そして猟奇なども成熟前の精神に悪い影響を与えると判断さ れるものに関しては、当然のこととして規制を加えなければなりません。その為に国 民投票が出来る様に法律を変えるべきであるとも考えます。
官能的なセックス・シーンが堂々と子供たちがテレビを観る時間帯に放映されていた り、刺激的な見出しの中吊り広告や、一般雑誌でのポルノに近い写真や記事(これは 完全にポルノ)が書店に堂々と販売されたりすることが表現の自由だとすれば、日本 はよっぽどラジカルな先進国なのか、それとも自由の意味をはき違えた無秩序で無節 操な精神的な後進国なのか、理解に困ってしまいます。少なくともこれだけは言えま す、秩序のない自由はアナーキー(無政府主義=無秩序主義)でしかないと。アナー キーへの道は自滅です。現在の日本のミディア(テレビ新聞雑誌)に、青少年の健康 を望み秩序ある社会を目指そうとする企業哲学があるならば、その精神に基づいた節 操が欲しいものです。
2・11・98