ボスは迷文家シリーズ |
常識を破らなければ進歩はあり得ない!
常識とは何か。若者達の多くは、簡単に常識から逸脱してしまう。若ければ若いほど、心の感ずるところに従うからだ。そして繰り返し繰り返し周囲の大人たちの反感にであい、最終的には常識に沿うように軌道修正されてゆくことになる。常識人はこのようにして育成されるのだが、常識への軌道修正に抵抗する数少ない若者たちは、自分達の心の欲するところに向かって我を貫き通した挙げ句、孤立したり疎外されたりする。そしてそんな彼等が実績を出すと、常識人たちの間からもっともらしい正論が生まれ出る。そういった正論が従来の常識に変革を与える。そして変革は定着して新しい常識となる。常識とは我を貫き通す人間によって進化していくことが多い。 ビートルズが"抱きしめたい"で一世を風靡した1960年代の初頭、"常識"人たちは、長髪を批判的に観て受け入れようとしなかった。あの当時の長髪は、耳をカバーする程度で肩までかかることはなかったが、それが70年代に入ると長髪は完璧なるまでに定着し、社会的にも認められるようになった。今ではデビュー当時のビートルズよりも長髪にした常識人がサラリーマン社会にも数多くみかける。この様に、常識とは時代や環境とともに変化してゆくものだ。然しそのプロセスには、常識の壁に向かっていた孤立無援の戦いが幾層にも積み重ねられていた。正論は戦いの結果でしかない。 若者たちに常識を押し付けている"大人"たちが気がついていないことが一つある。それは、彼等が良しとしている常識すら、一世代前のものと比べかなり進歩しているということだ。戦後まもなくまでの葬式には黒の紋付き袴が多かった。歴史的に見ても日本に背広なんていう仕来たりはなかったのだ。アメリカの古い映画を観るがよい。葬式での黒の背広は元来欧米の伝統であった。日本人がかたくなに伝統と信じている喪服は、西欧の文化を昔のまま受け継いだにすぎない。そして現代の欧米では黒の背広は既に風化してしまっっている。然し誰もこんなことには気がついていない。 時代、慣習、そして世相の変化に先行する若者達を昔のやり方で抑え付けようとする考えは、世代間の確執を産み、やがては古い世代が若者達に取り残されてゆくこととなる。それを避けるには、受け入れなくとも、新しい考えを認めることが必要だ。こうした変化に対応できる古い企業経営者は、高度成長期以降にも会社を伸ばした。然しそれをできなかった経営者は、高度成長期の終焉とともに会社さえも終焉させてしまった。企業の年老いた経営者の多くは、新しさや不慣れな後任者を認めたがらない。不慣れな過去の自分にもチャンスが与えられた事実を忘れている。馴染みのない新しさへの抵抗は激しく、結果的に進歩や変革にブレーキをかけている。老害というやつだ。親子間の断絶も同様である。 変革には抵抗がつきものだ。だから、変革(そんな意識はなく、ただ我を通しているだけなのだが)に立ち向かう者たちは、損をすることが多い。貧乏籤を引いてしまうのだ。常識という抵抗に抗うだけで、家族や地域社会との間に確執を産み、そこにエネルギーや資産そして人間関係を焼き尽くすこともある。失敗への代償にしても自分一人でかぶらなければならない。勿論、仲間が少ないので不安や淋しさも伴う。事が上手くはこばなければ、周りからは勝ち誇ったかの様に"それみたことか"と叩きのめされる。我を通し続けることは容易でない。 常識に抗う者たちは、情熱を向ける対象(=目標)に対して我を通しているだけで、常識を打ち壊そうなんて気持ちはないし、大成功してリッチになる気持ちもない。彼らが燃える何かに取り組んでいる目前で、常識が邪魔をするので、その邪魔を乗り越え様としているに過ぎない。経済的な成功を求めてはいるものの、個人の場合それは二次的だ。一番大切なことは心の赴きに従って情熱を傾けていられる状態にいられることである。そこでは個性を活かしきることができるのだ。彼等の価値観がそこにある。 社会的に失敗し人生を棒にふる人も彼等の中には多くいる。世の成功者となり、そこで始めて常識人たちから認知される人も多くいる。その何れでもなく、常識人たちのかげで、"変わり者"、"生意気な奴"と陰口をたたかれ乍ら疎外されている者たちも多くいる。彼等はみんな、自分の心の赴くままに我を通しているに過ぎない。平たいと思われていた地球を丸いと主張することによって、どれだけ多くの批判がガリレオに向けられたことか。日本の歴史上でも、百姓の出でありながら、サムライになろうとした秀吉の常識破りがあった。そして徳川慶喜が決断した大政奉還も徳川の歴史(常識)に反することではなかったのか。常識破りとは変革を呼び起こし、社会の進歩に貢献するものなのだ。 周りの反対を押しきって大学へ入学した子育て中の主婦もいる。 封建日本の考えを今でも引きずって生きている日本の家の姑たちは、"うちの嫁ときたら、子供を放ったらかしにして"と批判する。姑たちは、"嫁"がオサンドンでいて、家族といっしょに炬燵を囲んで三時のお茶を共に飲みながら、テレビの娯楽番組を観てくれていた方が(同じ価値を共有していた方が)安心できるのだ。勿論、家族の集束も強まる。それが嫁に期待されている日本の常識である。 誰にでも潜在的な才能はある。その才能が活かされるかどうかは、その個人にどれだけの好奇心とそれを追うだけの情熱があるかにかかってくる。好奇心と情熱さえあれば、才能が引き出されてくる筈だ。日本では、才能の差によって平均点教育が徹底しているので、ほど程の常識人が平均層の上中下レベル毎に出来上がっている。然し、彼等のうちの多くが、程ほどで留まっている理由は、常識範囲内生活に没している方が楽だと思っているだけではなく、我を通してまで追い求めたくなるだけの好奇心の対象を持っていないからであろう。常識の枠の中で飼い慣らされてしまっているのだ。誰にでも潜在才能はあるのに、これでは才能の無駄であるとしか言い様がない。 常識は、常識内の仲間が特異な行動をとることを嫌う。"みんなと同じでいいんだよ"。親しい一人だけが伸びたり変化したりすることを嫌がる。不安に感じるのだ。"誰それさんだってやっていないのだから"といって仲間から一人飛び立つことを許そうとしない。こういった常識の反復訓練(他者暗示、他者強制、自己暗示、自己セーブ)によって、徐々に人々は飼い慣らされてしまう。 ノミだってそうだ。 普通ならノミは高く飛び跳ねることができるが、箱の中に入れておくと、天井(=常識の限度)にぶつからないだけの高さまでしか跳び上がらなくなる。箱の天井にアタマをぶつけると痛いからだ。そんなノミを箱から取り出してみても、もう二度と高く跳ぼうとしない。常識とは、このノミの例にある様に、個人の特異な個性や能力を常識範囲内(=鋳型)にとどめる様に圧力をかけてくる。個性や才能を引き出すことは決してしない。日本の受験教育は、そんな中での平均点レベル・アップだけに力を入れてきた。一般家庭でもそうだ。だから欧米の異端児たちが具現化したアイデアを改良して、より良い商品に仕上げることにあたっては、平均点の高い仕事をこなすことができる。 しかし、そのオリジナルを創造することは得意としない。個人の力や個性的な魅力のある人間の育成の上で、日本は欧米に対して大きな遅れをとっている(徐々に変わってきてはいるが)。 "そんな事を言ったって俺だって、こんな商品があったらどうかと思うよ"、"私だって台所仕事をしながら色々と思い付くわ"、こんな声が聞こえてきそうだ。実際にはもう何度も耳にしている言葉だが、誰にだって思い付きのアイデアはある、ということを発言者たちは理解していない。アイデアが浮かぶこと自体は、とりたてて顕出したものではない。大切なことは、アイデア(=好奇心)を追い求めようとするだけの行動力に、才能が掛け合わされなければ、思い付きを具体化することが出来ないということだ。その上で更に常識と戦ってそれを乗り越えるだけの我(=エネルギーの強さ)がないと追求も持続しない。 特異なことをして成功を収めた人は、特別な才能のある人と見られがちだが、才能とは、好奇心、我の強さ、行動力、そして頭脳的才能までを含むというべきであろう。すれば成功に必要な才能は受験勉強のみを主とした日本の学校教育の現場では、力が入れられていないことが分かる。好奇心を育み我の育成や行動力の強化が片手落ちで、欧米開発商品の改良品のみを得意技としてきた日本は、今後どうなっていくのであろうか。今まさに日本の経済の低迷は、日本に画期的なコンセプトの出現を求めている。然し個性的なアイデアを自然に産み出す為の土壌は完成にほど遠い。常識がそれを邪魔するだけでなく、没個的平均化が潜在能力のある多くの人々を、ノミの箱で飼い慣らしてしまっているからだ。 教育の現場では、積極的に自分の意見を述べることの出来る子供を疎んじる教師たちが多い。常に回答は一つか許されない。三足す二が八であっても良いではないか。それを間違いと決め付けることによって生徒の回答を全面的に否定するのではなく、どういう具合に8になるのか、生徒にその論理を説明させる方が、生徒自らがその正誤を理解するのではないか、それが教育術ではないのか。更には、教育が社会生活での適応を目指すものならば、応用教育があっても良い筈。そうすれば生徒一人一人の考えによって様々な答えも予測されよう。然し実際に子供たちには自分の思考回路を訓練する場は与えられていない。上からの押しつけ抑え付け教育が殆どだ。回答は一つで、それを丸暗記することの方が日本の学校では大切なのだ。また、教師の側においても、生徒達の自由闊達な意見を尊重する人間的訓練がなされていない、という遅れもある。こんな教育では、オリジナルな考えやコンセプトなんて出現しにくいだろう。 社会人への道はただ一つ。答えは一つで良いとし、あるいは一つしかないと誰でもそう信じている。出来る限り中学だけよりも高校へ、そひて高校だけよりも大学へ。この考えは正しい。しかし、高校へ行って学ぶものは何だ? よりブランド名の高い大学の入試に合格する為の受験勉強だけではないのか。自我が確立していく中での個性の生育や人間関係のあり方なんて、日本の教育では蔑ろにされているのが現実だ。早くは幼稚園そして小学校から、 中学、高校、大学、そして就職という、一つの答え(目標)しか生徒達に与えない。このパターンの中でより良いブランド(大学そして学部)を手に入れることが、何を学びたいかに優先する。 何処そこ大は経済学部で知られているから経済にして、滑り止め大は文学部にしておけば安心だ! この様に担任の教師が進学指導をする。生徒の性格や得手不得手は優先順位に低い。先進国日本の教育?は凄まじいといえる。 修身から引き継がれてきた日本の教育は、慎みを重んじ我を押さえることにある。儒教の思想が生きている。だから、好奇心があってもそれを追う"我"を善しとしない。情熱を否定することはしないが、情熱と我が表裏一体にあることを誰も理解していない。それは、教育者たちの多くが"情熱"というコンセプトを抽象の世界に追いやって美化してばかりいるからだ。情熱とは、障害となる全てとの間に軋轢を生じ摩擦を生むもので、それは常識を破りルールさえ乗り越えようとするものだ。情熱とは応用力学上の"我"に他ならない。従って、如何ほどまでに情熱を美化したところで、生徒たちの我を抑え続ける限り、矛盾は残る。 教育は法や社会秩序を敵にしない。そのこと自体は社会正義にかなっている。然し、その為に常識の押し付けをして、生徒ひとり一人の個性すら抑えて良いというものでもない。社会正義と常識は正比例するものでもない。日本の過去の常識は、余所行きといえば背広にネクタイを求めた。過去に僕は何度、ピックニックやハイキングでのハイヒールや背広姿を目にしたことか。こういったミスマッチは、日本の常識の中にあった。今日でもピクニックに背広にネクタイで参加する人がいるほどだから、この飼い慣らしは凄い。こういった常識を覆したからと言っても社会正義に反することはない。 背広は西洋人の生活様式にそって生まれたオクシデンタルな生活の知恵。それをそっくりそのまま日本に持ってきて、畳の家を訪問するにも背広というのは滑稽としか言いようがない。日本の様に夏は蒸し暑い国で何故背広ネクタイを常識化するのか。これは滑稽を通り越して馬鹿ばかしいとしか言い様がない。残念ながらサラリーマン社会では変革は起きにくいので、蒸し暑い夏の背広ネクタイは、21世紀に入っても継承される常識であろう。サラリーマンがたった一人で変革を求めても、冷や飯を食わされるのがオチだからだ。日本には、無駄で害としか言い様のない常識が多すぎる。 心の赴くところに従って生きようとすれば、常識と戦わなければならなくなる。その戦いに勝たなければ官軍にはなれない、とすれば個人にとってはシンドイことの方が多いだろうが、我を通し続けたそんな先駆者たちがいなかったなら、常識も進化しなかったであろうことを忘れてはならない。