ボスは迷文家シリーズ |
ラーメンは楽しからず
「ねえねえ、今そこのパン屋さんでカレーパン買ってきたの、お昼に食べよっ!」、待ち合わせ場所にしていた数寄屋橋交差点近くの本屋で、あれこれと書棚の本に目をおっていたら、光子は駆けつけるやいきなりカレーパンを食べようと言い出した。「えっ!、カレーパン?」、“何でまたカレーパンなんかを、、アメリカから久しぶりに日本へ戻ったんだよ、他に食べたいものだって沢山、、、例えば、護国寺は栃尾のもやしラーメンだとかレバニラ炒めだとか、、うな重なんかだって僕のリスト(食いたいもの)の上位にある。わずか五日間の短い滞在期間の貴重な10分の1食(昼夜1日二食X5=10食)にカレーパン? 食べ損なうノレン街だって沢山あるっていうのに”僕のこのやりきれない気持ちは凝縮されてとっさに“えっ!、カレーパン?”という言葉になって表現されたのだ。「そうよ、ここのカレーパンって、スッゴークおいしいんだから」“久しぶりの日本だから食べたいものも沢山あるんでしょうね、貴方にはやはりトン骨ラーメンなんかがいいんじゃないかしら”なんていう洞察をドウにもサッしせない反応が、光子の口を通して出てくる。
「数寄屋橋でカレーパンを食う、さすがだねえ!」貴重な一食を奈落の底に失いかけている僕は“今さら僕のラーメンへの想いを知らなかったなんては言わせないぞ”という恨めしい気持ちをおさえて言った。すかさず光子は「バカネーあなたって、数寄屋橋の交差点でカレーパンなんか食べたらみっともないでしょう」と異をかえす、“バカはどっちだよ、だれが交差点で食べるなんて言った?君が勝手に数寄屋橋=交差点と思っているだけじゃないか?君の言い方だとカレーパンじゃなくてクリームパンとかアンパンだったらいいってことになるんだよ”僕の胃は“カレーパンなんて胃乱!”って“胃”ってるし、“胃”わずもがなラーメンを求めている。“何でそれを分ってもらえないのかなあ、トン骨の脂がきいたコクのあるツユ、コシのある手打ち麺、そんな僕の“胃”も解さずに光子はカレーパンなんだからまいるよなあ”口に出して言ってやりたいけど光子の親切心を傷つける様なことはできない(僕には思いやりがあるんだ)“カレーパンは食べなきゃマズイかなあ、食べてもマズイだろうなあ”
「こういう天気の良い日に日比谷公園でカレーパンを食べるのってすっごく楽しいのよ」、光子はノー天ハッピーに続ける。その間、僕の胃袋はフル・チャージでラーメンを求めていたが“カレーパンを楽しく食べよう”とする光子にはそんな“胃い分”は届かなかった。「さあ行きましょ!」光子は僕の腕を引いて歩きだした。もちろん、行き先は日比谷公園に決まっている。なあんたって日比谷公園でカレーパンを食べるのは楽しいんだから。
日比谷公園には日向に昼休みを過ごす会社員たちでいっぱいだった。同じ制服の女子社員たちや、ベンチに仰向けに昼寝する窓際とおぼしきサラリーマンたち、夫々がみな慣れたかんじで日比谷公園で息抜きをしている。だけど、ベンチに座ってカレーパンを食べている人なんて何処を向いてもいやしない、空ベン(空いたベンチ)だって見当たらない、僕の目はキョロキョロと辺りを見廻す。「なにキョロキョロしてんのよ?」光子が聞く、“カレーパンを食べている人”と僕は答える、空ベンを探しているだなんて口がさけても言いたくなかった、それが男の意地というもんだ。「バカネー」または僕は光子にバカとやられた「みんながカレーパンを食べるわけがないでしょう」、“またバカか、だけどどっちがバカなんだ!”と思いつつも口には出さず、目はカレーパンを食べている人や空ベンをさがしていた。
公園内はくつろいで読書をしたり気持ちよさそうに昼寝をする人たちでベンチもいっぱい、僕たちの座れる場所は見つかりそうにもなかった。誰ひとりとして立ち去ろうともしない、“昼休みぎりぎりまでは無理かな?”と状況判断をしている僕の腕をひいて光子が言った「ねえねえ、あそこのベンチはあと五分ぐらいであくわよ、あっちだと十分くらいかしら、他はねえ、ちょっと離れているし、空いたってその近くの人たちにサッととられてしまうでしょうねえ、五分待ちなんだからこっちを狙った方が確率は高いでしょうね」 こういった時の女の感は鋭い、これは一般論としても言い切れるし賭けをしたって外れる確率も少ない。僕は思った“ウーン、日比谷公園でカレーパンを食べるってのも大変なんだなあ、ラーメン屋の方がもっと回転は早いのに” 昼の公園でカレーパンを食べる為にベンチの空きを待つことが大変なことだとは、僕はこの時になるまで知らなかった。
「ほら、まだあったかいわよ!」、光子は手に下げていた紙袋から小さなナプキンをとり出すと、そのナプキンでカレーパンを一つ袋からつかみあげ、僕の手にわたし乍ら言った。あぶらに包まれたカレーパンのにおいがプーンと漂う。パンをくるむナプキンにはそのパン屋のマークがピンクのインクで印刷されており、パンをつかんだ部分は油で透明にシミていた。けっきょく10分弱待ちでベンチを手にする、イヤ、尻にすることができたのだが“日比谷公園でカレーパンを食べるのって疲れるんだなあ”と思った。
「中味のカレーって雲子みたいだよね」、カレーパンを手にした僕はしみじみと眺めながら“雲子”という言葉を口にだしていた。ラーメンを想うあまりに出た僕の歪んだ気持が言葉になったのだ。「何いってるのよ、バカねえ」、また僕はバカか!ラーメンにしていたら絶対に“雲子”なんかを思いつくこともなかっただろうから、“雲子”とだって口からは出しやしなかっただろうし(本来は下から出る門ですから)、勿論バカと繰り返されることもなかった筈だ、“ちくしょう、これもこのカレーパンのおかげじゃないか!”とひとりで憤慨していると、光子が急かして云った「なに考えてんの?そんなこといいから早く、、」“そんなこととは何だ?大切な考え事だってあるんだぞ”と反論したい気持ちを抑えながら、僕はパクッ!と雲子色したカレーパンに大きく一口かぶりついた。拭きとっても消えないようなパンの油がぬるっとした感触で上下の唇をなま暖かくしめらせるのがわかる。口の中は揚げパン特有の甘いかおりで充満し、そこにカレーのぬめりが混ざりあう。この“ぬめり”こそが雲子なのだと思いつつも“バカねえ”を恐れてそのことは“ぬめり”とともに口の中でモグモグさせるだけだった。その代り、美味しそうに“ウーン!”と“子”抜きでうなった。このウナリはラーメンを食い損なった上カレーパンを食う羽目になった僕のささやかな抵抗でもあった。勿論、光子にそこまで気がつく筈はない。光子という女は他人の話には馬耳東風で、言葉の裏を読んだり“うーん”とか“こー”とかの反応には敏感にあらずなんだ。
「ね?、美味しいでしょう、」カレーパンに翻弄されて隅に押やられたラーメンに対する僕の執念を解さない光子は、僕が“伸び(ー)”つき“子”ぬきの雲子、即ち“うーん”をしたので嬉しそうに同意を求めた。そこで今度は“伸び”抜き“子”抜き、あわせて二段抜きの簡単な返事“うん”、「ね、だから言ったでしょう?ほんとに美味しいんだから、、、」光子は美味しいという喜びを僕と共有したいのだ。「楽しいわ、こうやって貴方といっしょにカレーパンをたべるのって!」、僕の同意を得たと思っている光子は、日比谷公園でカレーパンを食べることの楽しさで幸せに満ちていた。だけど僕は同意なんてしてないい、意味のある“うん”を云っただけだ、“どんな事があったって僕は同意なんかはしない、光子、君にこの気持ちはわかんないだろ”
「カレーパンなんて久しぶりだなあ」僕なりの愛敬であったのだが“好きでもないもの食いもしない”という水面下のメッセージであったともいえる。だがつき詰まるところ“僕はラーメンでもよかったんだよ”と継ぐためのイントロとして云い勝手が良かっただけだ。ところがそれを云った途端、光子は得意の大転換「ねえ、この次は井之頭公園にしない?あそこも楽しいわよ。近くにレモンパイの美味しい店があるから...」、テンカンをひきおかすのではないかと心配になるくらい僕はがっかり。僕の主張は光子の頭脳をカスリもしなかった。光子はいつでもこんな調子でうわの空、他人が喋っていることなんか聞いてやしない。一つの話題が終わらないうちにパッと次に変えてしまうので、僕はいつでもずっこけている、とはいっても内容はどれもシンプルなものだから、彼女の“飛び石”会話に合わせることは難しいといったもんでもない、特別の訓練だって必要としない。しかし話題が井之頭公園に移った時なんかはさすがの僕も戸惑った。“カレーパンを日比谷公園で食べることが何故楽しいのか”を理解するのに手間どっているところにもってきて僕の“ラーメンへの未練”が重なりあったもんだから、けっこう手に汗を握って移り行く話題をキャッチ・アップしなきゃならないハメになったのだ。気を締めてかからないと豚DEMOナイことになってしまう。
光子の話の骨子をアカデミックに分析してみる。1.美味しいランチ(カレーパン)を買った、2.誰か(僕)と一緒だ、3.公園(日比谷公園)がある。これら三つの要素は“楽しみ”を補う別の要素(括弧の中)をもつ、ランチは美味しいカレーパンであり、友達は昔なじみの僕、そして公園は近くで広々とした日比谷公園だ。云わんとしているポイントは“楽しさ”にあるのだが、それは三つの要素を“行為”によって導いたところ結果であることが分かる。ぬぬぬ、僕は日比谷公園で行う“楽しい”行為となると、どうしても夜を想像してしまうのだ(俺だって男だ!)、しかし現実はきびしく(シューン)、光子が意味するところの“楽しい”という行為は僕と“昼”を伴にすることでしかなかった(ツマンネー)。カレーパンには美味しいという要素があるにせよ、これはあくまでも“楽しみ”を補うものでしかない。日比谷公園という状況設定についても同様だ。光子の言葉を組み立てなおすと“いま私が買ってきたこのお弁当(美味しいカレーパン)を、いっしょ(僕と)に公園(日比谷公園は近くでいい場所)で食べましょう、きっと楽しいわ(三つの要素の結果)”となるのだが、光子の口を借りると“日比谷公園でカレーパンを食べるのは楽しい”となってしまう。そこで次に日比谷公園を引き継いで“井之頭公園も楽しいわよ“と発展するのだが、言葉を文字通りに解釈するかぎり“カレーパン”が常に楽しみの中心になっていることがわかる。
欠席裁判はフェアーでないし僕は好きでない。ここいらで光子に弁明の機会を与えよう。ただし、あくまでも光子だったらこう言うだろうといったシミュレーションだ。本人から直接聞き出す勇気が僕にないので仕方ない、あくまでも僕の想像である。「何いってんのよ、バカねえあなたって! 、、!?、、BANDIT@MSN,COM.」“これだけ? ああ、簡単でよかった”と僕は一息つく、“バカねえ、インターネットで遊んでんじゃないのよ”とは光子は言ってない。だけど“バカねえ”で済むんだったら僕も楽だ。
昼にラーメンを食べ損なった僕は“夜の日比谷公園でラーメンなんてのもいいね?きっと楽しいよ”と提案。“夜の公園で?楽しみだわ”とは言わないだろうなあ。“日比谷花壇の隣のレストランで、どうかな?”この素晴しい提案に対して“そのアイディアってイイワ”くらいの答があるとも期待もせずに僕は云った。ところがこのツイストされた僕の期待に反して光子は何と「レストランねえ」とポジ反応、リトマス試験紙が僅かに青く変色してきた様だ、“いいぞ君もやっぱり血のかよった人間なんだなあ”なんて思ったりし乍ら“そっそっそう”僕は声をうわずらせて応えた、「いっいっいいわね」光子も連られて周波数を合わせてくる、僕の心は有頂天だ! 更に続けて「レストランで食事っていうのも悪くないわねえ」手応えもハッキリとしてきた、“いいぞいいぞ、その調子”僕の心はウキウキ、そこで光子はトドメに入る「レストランで祝うって素敵ね」 “祝う?”と僕、「そう、うちの母の誕生日になんだけどね」“、、、、!?”とまた僕、そしてガックリとする僕、光子の話題テンカン完了! 喜びもつかの間“現実って厳しなあ” 僕の提案する“レストラン”を受けて“母をレストランへ”と転換。勿論ウイズアウト罪の意識だ、ラーメンを食べ損なった僕の気持ちなんて想像なんか出来ないんだろうなあ。
会話は“母の誕生日”に移り僕の提案からは“ing”がポロッツと落ちてハイそれまでよと中断。“ああ、またラーメンを食べ損なったなあ、、”と僕の心は落ち込んでゆく。するとどこからともなく今は亡き僕の母お千代が「男の子がそんなことでどうするの! 値段のはるお寿司ならともかく、たかだかラーメンくらいでだらしのない、、あのロッキーを見てみなさい、打たれても傷ついても、それでも立ち上がって相手を睨んでいるでしょう、お前もロッキーを見習ってもっとしっかりしなきゃ駄目よ!」 叱咤激励するかのように僕の頭脳をドカーンとどつく。“そうか、こんなことでしょげていたんでは駄目なんだ、何度だって立ち上がらなけりゃだめなんだ、、”母の言葉に勇気づけられた僕の目には、倒されてもなお立ち上がるあのスタローンの傷ついた姿が浮かんでいた。“何回たおされたって起き上がるんだ、七回たおれたら八回起き上がればいい、そうだ七転び八起きの達磨の様に!”
あの世の母から受けた頭脳刺激は利いた。アーキパンクチャー(ハリ療法)以上の効きめだ。それは翌日の僕を開店前の東武百貨店まで駈けつけさせたほどだった。それも七転び八起きの達磨を買う為に。東武百貨店の売れ残り品の品揃えは充実しておりデパートの鏡ともいえる。帰りの志木行の準急電車(これも東武)の中で、僕は買い求めた達磨さんを見たくてはやる気持ちを抑えきることが出来なかった。堤紙(これは西武だから誤り故“包紙”に訂正)を開けるや、すかさず達磨とニラメッコ。すると、何ということだ、ヒラメキがヒラヒラとヒラメイてくるではないか!しかもそれは頭脳火花(これは母の頭脳打撃により点火)すら散らしている、全てが前向きに! 例えば“ラーメンの奥が深いということは一般に知られているけれど、ほんとうはカレーパンだって棄てたもんじゃあない”といったのから“ところ定まらない女の会話にあわせることだって考えようによっちゃあいいんじゃない?”といったヒラメキまで、それも選り取り見どり、みんなイイことばかり、それがギガバイト以上の情報量で迫ってくる。
これから光子と会う時は、この達磨人形をお守りにして身につけておくにかぎる! 初心貫徹! 達磨さんがあればコワイものなんかなーい。いつの日かきっと日比谷公園でラーメンを楽しく食べることもあるだろう、その暁には達磨さんに目を入れてあげよう、そうだ!それがいい、そう思うと気持ちがいっぺんに明るくなってくるのがわかる、まるで、扇子を手にする紋付ハカマの三波春男が日本一の笑顔をふりまいているかのように晴れ晴れしい。この何ともいえない晴れ晴れ感は、美味しいラーメンに出会った時以上の満足感までをもともなって、僕の心に力と勇気を与えてくれている、それがしっかりと感じられるのだ。
最後に
達磨さんのヒラメキで充実していた僕は、その夜ゴロンと寝コロンで一文(ひとふみ)したためました、それを紹介させて頂きます。ただし読んでいてコロンだらヤバイので、しっかりと忍耐強く、それもゴロンの意味などをかみしめ乍ら進んで下さい。コンロの意味かって?それは違います、コンロは七輪じゃあないですか、あれは“車”遍ですよ。では4711?どこの誰ですかコロンの水(オー・デ・コロン)だなんて?それは英語でいうColonで独語のKolnでしょう、この場合はKの次のOにはウムラルトが付いてケルンと読んでネルンですけど、あなた方はまだゴロンとしないで下さい。 漢詩なんかにでも関心のある方にはつべこべとした説明も不要なのでしょうが、最近の人たちにはチョット意味不明の箇所が多いかもしれません。だけどそれを云われてアタマにきてたら駄目です、それは感心できません、何ごとにも秦亡が漢人なのです。それこそが授業の教え、いや儒教の教えというものではありませんか。苦しい思コウシてますが、汗心の思いでこのハイ・テック文を貫進しております、あなた方の中にはゴロンの意味などを御論及なさりたい方だっていらっしゃるでしょうが、先ずこのアナレクトを読んで下さい、そうして頂けるんでしたら僕も歓甚です。
僕、日く(いわく)
朋(とも)遠方より来たる、久しからず
数寄屋橋にカレーパンを知り、日比谷にラーメンを想う、楽しからず
あした対麺すれば、ゆうべに死すともおそれじ
僕は云ったんだ、友達(僕)が遠く(アメリカ)からはるばるやって来たんだもの、久しぶりだったって、数寄屋橋のカレーパンも食べたし日比谷ではラーメンのことが頭から離れなかった、あの時は楽しかったなあ、それで今日あたりラーメンが食べられたりしたら本望だよ、明日には死んだっていいくらいだ。
僕が書いたアナレクトの説明を他人に問うことはちょっと“はばかれる”という方々の為に訳してみました。何故はばかれるかって?だってアナでエレクトなんかしたらライス・クッカーですよね。 因みに“はばかり”とは本来は“便所”を指しますが、名詞以外では“恥ずかしい”とか“気がひける”として使われます。“便所”とは独語ではトイレッテン、米語でレスト・ルーム、英語でウォッシュィング・クロゼット(WC)となります。フランス語ではトワレだと思うのですが、いまひとつ自信がありません、だけどオー・ド・トワレが“トイレの防臭水”(黄水ー溝水ー香水の順で過去ー現在ー未来と進行する)ならば“トワレ”が“はばかり”であると断言しても誰にもはばかることはない思うのです。“溝水”は“オXXコ処”という意味ですが、映倫にお詳しい方にはこの“X”レイテッドの部分がより明確ですね。トリプルXではないのでエッチなんかじゃありません。“溝水”これは“ドブに水”と読んで、つい最近までの日本では一般的だった外路地トワレのあり方を表わしています、だけど“シッ”だまっていて下さいね、国際的にみてもねえ、みっともないですよね、お父さん。
これ以上続けてせっかくのヒラメキが臭くなっても困りますからもうオワリ!とします。連発駄ジャレでお疲れでしょうが、僕は“I couldn't help it”シャーネージャーネーカーって感じ、ですからフォーギブ・ミー。 筆を置く前(キーボードを離れる前)にもう一度だけノー天ハッピーな光子に発言させます、聞いてやって下さい。“光子さーん、最後にもうひと言お願いしまーす”「あなたって救いようのないバカねえ!だまって聞いてたら(ほんと?聞いてた?)つまらない駄洒落ばっかりで、ねえ、少しはダルマってなさいよ!(これは駄洒落じゃないのか!?) それよりあのカレーパンどうだった?楽しかったでしょ?」光子の言葉が約二千字ぶりに僕の耳に、それも心地よく、どうしてなんだろう、だけど“バカねえ”と何度も繰り返されて喜んでもいる訳にもいかないので、ムッ!