ボスは迷文家シリーズ |
いちいち"世界の"なんて形容詞をつけるな!
黒沢明監督が死んだ。メディアは "世界の"黒沢監督が死んだと報道する。 いちいち世界の黒沢なんてするな!と僕は思う。 "世界の"という形容詞は、日本人が欧米への劣等感を持ち続けていた時代に頻繁に目にし耳にした言葉だ。日本が"世界の"先進国入りを果して久しい今、メディアに所属するインテリゲンチアがそんな形容詞を使っているようでは、彼等の時代認識は大変遅れているとしか言い様がない。
高度成長期の初頭、安かろう悪かろうの日本製品は欧米の市場に食い込み始め、我々はそれを誇りに思った。メーカーも世界の松下、世界のサンヨーと自己賞賛するように宣伝をしていた。世界の黒沢も同じことだ。ところが、松下電器にしてもサンヨーにしても実質的にグローバルな展開をする様になった頃から、自他ともに認める世界の企業に成長した、と同時に"世界の"という肩書きを落とした。欧米に認められたいと思っているうちは劣等感をバネにして世界を目指していたが、世界を制覇してからは世界とは当然の土俵になったのだ。今では"世界の"と形容する前時代性はなくなっており、そう形容することは逆に時代の変化を認識していないことを意味することでもあるのだ。
アメリカ人が世界のスティーブン・スピルバーグ監督と呼ぶだろうか。世界のビル・ゲイツも耳にしたことがない。このメディアの使った"世界の"は、時代がグローバルになったことへの認識に書き手自身が欠けていることを暴露しているようなものだ。"世界の"なんて自分達の口から言っているうちは、まだまだ"世界の"になりきっていないのだ。それでは亡くなった黒沢監督に失礼であろう。 彼の名は黒沢明だけで、世界中どこへ行っても通用するんだ、という認識を何故もつことができないのであろうか。
因みに、アメリカの大リーグは、北アメリカだけの、それもメキシコを含まないカナダと米国を交えただけの最終戦をワールドシリーズと呼んでいる。 自己満足も甚だしい! キューバを含め、ラテン・アメリカの国々をはじめ極東の地域でも野球は盛んだ。プロ・チームを持つ国々の全てが参加しない仲間内だけの試合をどうしてワールド・シリーズと呼ぶことができるのだろうか。正しく大リーグのトップの考えが前時代的であり、野球がアメリカとカナダだけのものだという仲間意識にこだわり、世界が変化していることを認めたがらないからであろう。これは任天堂がシアトル・マ
リナ−ズのバイアウトに動いた時の大リーガーオーナー達の反応でもあった。"日本国籍の企業は大リーグ・チームのオーナーにはなれない!" 更には、最近では感じることがなくなったアメリカ人特有の"世界の"Big Brother意識が、大リーグのトップの間では今でも脈々と流れているのかもしれない。
◆9月8日付・読売社説(2)(9月7日22:17)
世界のクロサワを悼む − 世界の巨匠、黒沢明監督が亡くなった。 (以下省略)
9-7-98
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