ボスは迷文家シリーズ


Vol. 91

ポイントは何か?がつかめない

日本式教育の原点にある問題ひとつ 

日本からアメリカの小学校に転校した娘さんの話。カタコトの英語しかできないまま、エッセイ(=作文)を提出した。その結果、彼女は100点満点をとった。日本式教育では考えられないことだ。 本質を重要視する米国ならではの話だ。 テクニカルな面を重要視しすぎる日本の教育は、それが為に、本質がみえにくくなることが多い、という弊害がを産み出している。これは、日本式教育の原点にある問題ひとつではなかろうか。

日本では、本質的な部分よりも技術的な部分の正誤を重視する。どの学科でもそうだ。よって課題の本質が二次的になってくる。従って、書かれた内容がいくらポイントをついていても、文法や単語の誤りがあると大きく減点される。ところがアメリカでは、目的の本質を重要視する為に、“道具”(=文章)を不器用に使っても、理解がきちんとしている限り、その部分が評価される。“道具”操作の不器用さは、専門の教科や反復学習によってインプルーブされるだろうという立場をとっている。

僕は、1971年の留学時代に、アメリカ人の学生に混ざってCreative Writingのクラスをとったことがある。ESLではなく、日本で言えば国文科の創作研究のクラスだ。僕は、そこで自分の半世紀を含めて短編小説を八編ほど書いた。勿論、文章は稚劣で、単語のミススペルや文法の誤り等が相当ひどかった。然し、教授はそういった技術面よりも、むしろ創作活動をしようという精神を応援し、間違いや失敗を恐れずに、新しい表現方法にチャレンジした時のその成果を採点してくれた。勿論、文法の誤りが指摘されたことは言うまでもない。 この娘さんの先生は、「文法はもとより単語のスペルさえひどかった筈なのに、何故満点なのか?」と質問する母親にこう答えた。「テーマをきちんと理解し、それに対するきちんととした自分の意見が書きだされているからです」

米国では家庭でも、子供たちの能力を押しつけで画一的に伸ばそうとするのではなく、個人の力量の中から、より大きな力が出てくる様に指導する。どんなに小さなことでも誉めあげ、子供のやる気を応援してくれる。日本は、そうではなく、大人達が、「お前なんか、やっても無駄だ、、」と言っては、子供達の頭に重石を載せてくることが多い。それは、親の謙遜であったり、親近感から出ることが多いが、実際にそう言われた子供たちにとっては、“僕は駄目なんだ”という暗示と変わることがない。だから子供たちにも自信がわいてこない。大人達の謙遜が子供を駄目呼ばわりすることだってある。

僕のエッセイに対して二通りの反応がある。暗記型受験生活を送った相手ほど、内容の評価をしてくれない。その代わり、彼等は誤字脱字の指摘だけはきちんとする。僕が書いた文の内容に対し、その通りだ、とかそうは思わない、という類の反応は少なく、僕の勉強不足、もしくはコンピューターの漢字変換による誤字脱字だけを指摘してくる。こういう人達が世の中には数多くいて、官庁を牛耳っている。官庁が、誤字脱字をうるさく指摘するのは、そういう人達の手の内に組織があるからかもしれない。 本質を読もうとしない暗記受験型人間が、官僚制度を固めているのだから絶望的だ。 元々、官僚制度の確立の為に学校の振興があった。 技術面をしっかりと教育することには賛成だが、その点だけに重点が置かれることは弊害でしかない。その弊害の部分が肥大化した官僚社会を支えてもいる。

小野沢昭志 (December 21、1997)

僕は日本人を総じてロジックがない、とか、アメリカが良くて日本は駄目だといっているものではありません。 ここで言わんとしているポイントは、ひと昔前に話題になった石原慎太郎の「noといえる日本」ではありませんけれど、アメリカに反論する為には、感情的になるのではなく、反論材料を揃えた上で、きちんと論及しなければならないということです。論理の筋が通っていると、どんな強引な要求ですら跳ね返すことができます。アメリカとはそういう国です。「生意気な!」というように感情的になるのも、計算された演技の一部でなければ、アメリカ人とは商売できません。それはまるでキツネとタヌキの化かしあいの様です。オリジン(=考え方)の異なる異人種によって形成される契約社会ならではの特徴だとは思います。日本の様な馴れ合いは希です。

僕の対アメリカの商売は、かれこれ30年近くにもなり、その半分の15年は滞米での商売。留学年数を入れると、約20年ちかくも米国に住んでいることになります。アメリカでは、誰も助けてくれません。全くの孤立無援の中で、自分自身を主張し、相手に印象づけて生きていくのです。僕は完治君と異なり、サカエの社員ではありませんでした。アメリカに子会社を創立するという契約を結んだベンチャー創業者であったわけです。何がおこってもサカエは僕にとっての大樹ではありませんでしたし、僕もそれは期待しておりませんでした。従って、いつも商売相手と上手く利用し利用されながら、一人で生きる上での安全圏をつくってきました。このエッセイに書かれたことは、いわば、僕の三十年の対アメリカ人交渉経験に基づいたものであるといえます。

アメリカで、アメリカ人の企業を相手に商売をしていると、強引であったり難しい要求であったりいろいろとあります。相手方も会社の即利益に結びつくことをしないと、簡単に解雇されてしまうので必死です。

これでは長期的な戦略はとりにくいですね。僕も最初の頃は強引に迫られただけで脅えていたものが、ある程度なれてくると、それはアメリカ人の演技でもありネゴシエーションのやり方でもある、ということに気づきはじめました。ところが、基本的には彼等には職がかかっているので必死なのです。いってみれば、後には引けない状況に担当者たちは立たされております。ところが、そんな状況にあっても、彼等は論理的に証明をしていくと折れます。これは、アメリカが契約社会であるが為の特質ですが、担当者としてもロジックスが通っていると、上司にからも納得してもらいやすいわけです。

日本政府は、こういったアメリカ人たちとの交渉になれておりません(本当は、充分に慣れていなければならないのですが)。 また、演出力もアメリカを前にしたら皆無に等しいほどです。然し、ムーディーズの評価は商売の交渉とは異なり、簡単に言えば基礎事実の判断(彼等の)の結果なのです。日本政府のは、どんな基礎事実を使ったのか、又、評価基準は何なのかを調べれば、反論材料が揃えることができるのです。僕が政府の首脳だったら、ムーデーズの信憑性すらを覆すだけの調査をします。「生意気な!」という反応は、それが交渉上のジェスチャーとしての発言ならばともかくとしても、ムーディーズは交渉相手ではありません。日本国のレーティングをしただけなのです。反論としてすらも意味のない発言でした。 ここいらへんが、僕の言いたかったところです。

以前に書いたエッセイをお送りさせていただきます。 最後のパラグラフをお読みください。

小野沢

 



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