ボスは迷文家シリーズ


葬式仏教
民衆から巻き上げる死人の為の宗教


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一般的に、日本の仏教とは現生に生きる民ではなく、死人を商売目的に利用した 葬式宗教ではなかろうか。葬式産業のビジネスマンが寺の住職なのである。

どこの国にも現世の苦しみから信者を救う為に宗教がある。しかし、日本に ある仏教は"口がきけない"死人を救う為のものでしかない。 90%の日本人の自宅には仏壇がおかれ、寺に は先祖の墓がありながら、仏教との付き合いは葬式と法事だけに限られている だけなのだから、これは死人の為だけの宗教と呼ばせてもらっても過言ではないと思う。 仏壇をもつ日本国民に宗教は何かと問えば無宗教と答える。しかし、葬式が 出れば仏教なのだから、日本人にとっての仏教とは死人の為の儀式でしかないのだ。

葬式産業の頂点にたつビジネスマンが住職たちの本当の姿。 彼等がもつ民衆との接点は葬式法事に限られていて、民衆の間に信仰心を高めようと努力 を感じることができない。 民衆は、住職の墓管理業に頼るところが大きいので、また先祖さまたちが疑問ももたず 死後宗教の仏教に死んだあとを頼っていたので慣習として仏教を引き継いでいるだけ。 仏教が現生に生きる民ではなく死人の為の ものならば、僕にはこれを宗教と呼ぶことが出来ないのである。

台湾へ行けば 仏教が民衆を救うための宗教として大きな存在感をもっている。あの国では タクシーの運転席にさえ小さな祭壇を見ることが多い。仏教がそれだけ民衆に密着 しているのだ。しかし、こと日本となると様相が大きく異なる。日本国民は 死人でもでない限り仏教とは無縁だからだ。葬式のお経が亡くなった仏を 救うものであることを我々は知っている。しかし、今世に生きているのは、亡く なった人ではなく息をしている我々だ。しかし我々の為の仏教が近くの寺にはない。 仏教の今の姿が我々を救う為にあるとはどうしても思えないのである。

葬式 の時に、お布施だとか戒名料といっては大枚を巻き上げて、民衆を苦しめている ことが仏教の現実だ。多くの場合、檀家との付き合いはお布施を目的としただ けのもので、基本的には法事と葬式に限られた付き合い。 寺にとっての檀家とは収入源、、、。 檀家にとっても、仏教とは葬式という便宜上だけのもの。

葬式で一時間ほどお経を唱えることだけが日本における仏教の一般だ。 檀家は仏教から教えられるものをもたず、葬式や法事でお金をまきあげ られる被害者意識すらもっている。はっきりといって、民による信仰不在 の宗教と"なり下がっている"ことが仏教の現状といえるだろう。住職たちは地域に根付いて 信仰を広めようとする努力すらしないから、民衆は仏の教えのカヤのそとにおかれて いる。

仮に、仏教に救いを求めようとする人がいると、その人は数限られた 人々のように仏門に入るという人生の一大変革をしなければならない。 しかし、 アメリカにみるキリスト教は信者・民に密着していて彼らに人生の変化 を求めない。カトリックは頂点にたつローマ法王みずから信者たちと接触 し、人々を救おうとする。

宗教に信仰という言葉があるにも関わらず、住職達は檀家に対してさえ信仰心を高める 努力をしない。それは住職たち自らが死人達の為の宗教という認識を持っているから だからかもしれない。仏教が亡き人たちだけのものだということなら、現在日本の仏教の あり方が理解できるが、キリスト教やカトリック教そしてイスラム教のように、現世に 生きる人たちの為の宗教であるとすれば、住職たちは余りにも民衆とはかけ離れた存在 になりすぎている。

本来の仏教を批判しているのではない、金満住職批判である。僕は、本で知る限りの 仏の教えは素晴らしいものだと思うが、 現状の住職たちをみる限り仏教の姿が僕には伝わってこない。生きている僕に伝わって こないならば、葬式仏教と呼んでも差し支えないと思う。

おのざわショージ
11/30/01

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