ボスは迷文家シリーズ |
優柔不断態度を切り捨てることが生存の原則
人から依頼や誘いがあった時にYesNoをはっきりと答えることが できない人がいる。40〜50歳の人にも多くいる。Noと言ったら、 相手との友好関係にヒビが入るのではないかと危惧する場合が 多いので、ある意味でそれが゛思い遣り゛と勘違いされているが、 実のところそれは自信がないことの裏返でしかない。こういう人た ちは八方美人になりやすい。。
日本的優柔不断は日本人の国民性である。政治の場ですら、ハ ッキリとYesとNoを言うことができないのだ。あっちの顔を伺い こっちの顔色を伺い、、Noと言いにくい時は、取り敢えずYesと 言って相手を安心させて、その後でbutをつなげてズルズルと 引きずった挙句 Noという。これはとてもズルイやり方なのであ る。日本人がわの都合は相手への思い遣りだが、相手はそこで 時間と機会をロスしていることに日本人たちは気がついていない。 ただ、堂々とNoと言った上で人間関係をとりもつことができない だけのことでしかない。
日本の大人たちが優柔不断では、子供達だって同じだ。IT革命 によって、急速にバウンドリーがなくなっていく国際社会の中に、 好むと好まざるに拘わらず日本人は組み込まれていく。これから の日本を背負っていく若者達の中で国際派を目指す若者達が どんどんと世界中に留学している。歓迎すべきことである。しかし、 シアトルで見ている限り、そんな留学生の内の80%までが、アメ リカに来てアメリカに入ろうとしないで日本人村でこり固まっている。

オノザワの留学時代
彼らには、YesNoをハッキリと求められるアメリカ人の中で堂々と 対等の友好を結ぶ自信がないのだが、基本的には思考・語学的 についていけないからである。日本人特有の思考における論理の 欠如が相手との対等な会話を恐れさせているのである。それが会 話力不足、即ち英語力不足とあいまって、国際化の窓際にいる国 際人を産みだしている。
アメリカはTakeする為にはGiveが求められる社会である。それは 例え親子の関係であろうと変わることはない。裕福な家庭の子供た ちが、家の外の道路際でレモネードを売っている光景はどこでも 目にすることができる。Takeする為にGiveすることが教えられて いる。彼らはレモネードを販売する時に、堂々と商売の語り方をする。 こうして社会適応性を身につけているのだ。アメリカ人の子供たちは 10歳でも責任ある大人の話し方を身につける方向に向いている。
ところが日本では20歳を超え大学を卒業した若者達でも話し方に 責任を感じさせてくれる人が少ない。これは日本の教育や家庭が 子供たちを子供というワクの中に容れたままにした為に若者たちが 大人になりきれずにいるのだ。そんな彼らは親にすがって留学をし ている。自立をしていない。中には30歳になってまでも自立できず に親からの仕送りに頼っている留学生もいる。留学10年してもアメ リカに入らずに日本人村だ。彼らは何時になったら大人になるので あろうか。そして何時になったら国際人になるのであろうか。
アメリカでは年少の頃から、大人たちは彼らを一個の人格として扱う ので、日本人にいわせると、アメリカの子供達は意見が大人っぽくて 子供らしい可愛らしさが感じられないことになる。反面、日本では、子 供を子供として扱う、いってみれば、ペットのように扱うので、大学を 卒業してからも、さらには30歳になっても大人としての自立ができな い若者もつくられるのだ。
子供として扱われ続ければ、当然のこととして学生たちに自立心が 育つわけがないし、大人としての意見を述べる時に経験的な自信さ え持つことはできない。さらには、間違いを駄目としたり、「子供のク セ」に生意気、「女のクセ」に生意気、「新人のクセ」に生意気なこと を言う、と批判が出る日本では、子供達が大人になる為の訓練はや りにくいだけだ。
NOといって、相手を傷つけたくない、という気持ちは優しいものだ と日本人は理解しようとする。しかし、これは浅慮な見方である。実 際は理性と感性がごっちゃになっているだけなのである。NOとする 気持ちは理性であって、NOを感性のみで応えようとするからこそNO と言い切ることができないだけなのだ。コーヒーを召し上がりますか? 本当は飲みたくないのだが、せっかく言ってくれているのだから、と いってYESとする経験は多くの日本人が持っている。 お酒をもう一 杯と薦められて、Noと言い切れずに飲んでしまう日本人も多い。アメ リカ人はそれをやらないし、やられたら、貴方には私がNOと言ってい 意味が理解できないのですか?と逆に問い詰められて、場はそこで シラケテしまう。アメリカ人は自分の意志を貫き通すために、NOと 言うことに躊躇しない。それは例え相手が上司であっても同じことだ。
一時が万事、YESの応えを期待する相手に向ってNOと言うことが できない日本人は、ビジネスの場で築きあげてきた人間関係にヒビ をいれたくないと思って、「善処します」と訳のわからないことを言う。 しかし結果的に、期待感だけを相手の心に残したまま、後でNOと言 う。相手にしてみれば、質問をした時にNOと言ってもらっていたら他 の対応もできた筈なのだが、二週間後では対応もとれなくなることだ ってある。優柔不断とは相手に迷惑を与えることにもつながるのであ る。NOと言うべき時に言えないことは、結果的に相手に損害をあた えることにもなる。NOが言えないことは、けっして優しさでではなく、 本人の自信のなさが優しさに勘違いされているだけなのである。
日本は政治の場でもYesかNoかをハッキリと述べることができない。 都知事の石原慎太郎はソニーの盛田昭夫氏と共著で本を上梓した。 「ノーと言える日本」がそれだ。
今までの日本の教育は、間違いを駄目としてきたので、子供たちは誤り を恐れて発言が苦手になってきた。自由に発言する為の練習機会を奪っ てきたのだ。そうすれば意志を述べる訓練だってできない。個人差はある ものの、おとなしい子は間違いを恐れて発言に自信を持つことができなく なるだけだ。
しかし、それは何も学校だけではない。職場でも家庭でも、「新人のくせに 生意気だ」、「子供は黙ってなさい!」などと言っては弱者=発展途上の 大人たち=未熟者たちが訓練の繰り返しという経験する場を奪っている ことが現実だ。これが優柔不断な態度を作り上げている。
以上のような理由から日本社会は優柔不断な大人を生産しつづけて きている。そんな人たちは自分たちの人生そのものを優柔不断なもの にして中途半端な生き方をしている。ある意味で、その人々の応え方 一つに人生の選び方を読みとることができるのかもしれない。いずれ にしても、経済崩壊が続く日本で生き残る為には優柔不断ではやって いくことができないであろう。優柔不断は日本でも通用しなくなってきて いる。ここで、日本の学校教育でYesNoをハッキリと言った上で対人関 係をきちんと維持することができる技術を教えるべきだと思っている。
小野沢昭志
2001年9月10日